春からの使者
 

 北国に例年よりもだいぶ早い春が来た。野原に街に学校に。そして、わたしの元にも。
「はじめまして、立花ハルカです」
 寒い、という元気もなくなるほどの冷気。今日の公立中学校にある暖房器具と言えば灯油を唯一の原動力とするストーブくらいだ。授業中は独特の身体に悪そうな匂い、休み時間はそれの代償のつもりなのか、換気してください、という地獄への合図もちらほらと聞こえてくる。
 立花ハルカさんは黙っていても目立つ子だった。整った顔立ちと育ちのよさそうな振る舞い、通学用のかばんも俗に言うスクールバッグやリュックサックではなく、ちょうどお父さんが会社に行くときに持つような革の鞄を手に持っている。
 おしゃれを楽しもうだなんて思えないほどの凍える寒さがわたしたちを取り巻く。震える指先と、無意識のうちに始まった貧乏ゆすりで身体が身体を暖めようと必死なのがわかる。生徒会の熱意と一部の先生方の計らいにより、今季から着用を認められているフリース素材のトレーナーは近くの大手量販売店でセール品だった黒、灰、白が主流で、皆それを着て教室の机についている。深緑を着ているわたしのような例外もいるが、地味なことに変わりはない。だけど暖かいことにも変わりはない。
 そんなこともあって、立花さんが目立つのは当然であり必然でもあった。なぜなら彼女は黄色いパーカーを着ていたのだから。
「せんせーっ」
 休み時間はもちろん、それが授業中であっても自らには絶対の発言権があると信じている――要するにおしゃべりな――男子、金古が浮かれた調子で、だらりと手を挙げた。
「立花さんは、どーして黄色を着てるんですかーっ」
「これしか持っていないからだそうです」
 即答。唯一の所持物ということらしい。
「じゃあ買えばいいじゃん」
 別の子が口を開く。
「そういうわけにもいかないんだなあ」
 先生が腕を組んで言う。当の立花さんは発言する人をじゅんぐりに見つめながら、相変わらずにこにこしている。どうなんですかー、と野次が飛んでもその表情は崩れない。確かに地味な色で、というのが着用許可の決まりだった。先生は頭を抱えて悩んでいる、でもそれはたぶんそんな素振りを見せてるだけ。
「明日からはちゃんと、着ますから」
 綺麗な目が少し細くなった。金古はそれにどきっとした様子でもごもごとまだ何か言いながら着席した。
 わたしがふと前へ向き直ると、不意に立花さんと目が合った。立花さんは、あ、と口を半開きにして何か言いたそうな、何かを訴えてくるような眼をした。私の脳内にはてなマークが一つ浮かぶ。でもその次の瞬間、口は閉ざされ眼も元に戻った。わたしの脳内に二つ目のはてなマークが浮かぶ。
 何が言いたかったのかなあ。ぼそりと口に出してみた。
「皆、仲良くするように」
 お決まりの台詞で朝のホームルームはおしまい。学級委員が地獄への合図を唱えると誰からともなく窓を開け始めた。
 わたしの席は廊下側。立花さんの席は窓際。わたしから立花さんの席までは少し距離がある。その上、流行り物が大好きな女子のグループがもはやパターン化された誘導尋問を繰り広げているとくれば、わたしが付け入る隙間なんて一ミリも残されちゃいない。


 誘導尋問はまるまる一日続いた。つまりわたしが立花さんと話すことはなかったということだ。黄色のパーカーと深緑のパーカーは隣同士で並ぶことも、近寄る事さえできなかった。
 わたしはそれを寂しく思うと同時にわけのわからない思いでいっぱいだった。どうして立花さんはわたしにあんな反応をしたのだろうか。初対面のわたし、目立たない性格のわたし、頭がいいわけでもなくスポーツができるわけでもない普通のわたし、特別人望が厚いとか友だちが多いとかでも何でもないわたし、深緑のわたし。
 いろいろ考えながらやる宿題は捗るはずもなく、おまけに家が暖かすぎて頭がぼーっとする。そんなことも手伝ってか、宿題が終わったのはいつもより二時間も遅い午後八時だった。うちは共働きで二人ともまだ帰ってくるような時間帯ではないのでわたし一人だ。ふとテレビをつけると明日は雪が降るとのこと。出しっぱなしの自転車があることを思い出したわたしはウインドブレーカーをはおって暗い庭に出た。
 自転車を車庫に入れて鍵を閉めると、後ろから懐中電灯の明かりがこちらへ延びてくるのがわかった。
「こんばんは、夜分遅くにすみません」
 見れば立花さんが立っていた。あの黄色いパーカーを着ている。
「これ、ごあいさつの品です」
 そう言って立花さんはわたしに箱を差し出した。引越しの挨拶回りだから、きっとお菓子か何かだろう。わたしは丁寧に押しいただいたが、再びどうぞと言われてありがたく受け取ることにした。あとでお母さんに報告しなくっちゃ。わたしはお返しをするつもりで立花さんに訊いてみた。
「寒いでしょ、よかったらココアでも飲んでいかない」
「ありがとう。でもいいわ。次に行かなくちゃ」
といった矢先、風がぴゅうっと吹いた。わたしは立花さんが思わず、寒い、と漏らしたの聞き逃さなかった。
「ほら、無理しちゃだめだよ。こんなに暗いんだし。残りは明日にしたらいいじゃない」
 わたしは立花さんの黄色い背中をぐいぐい押して、玄関前まで連れてきた。扉を開けて手招きすると、それは申し訳ない、と首を振る。どうしてもというので、わたしは立花さんにちょっと待ってもらって、大急ぎでコップにココアを入れて運んだ。
「はい」
「え、でも」
「いいから。飲んでみてよ絶対おいしいから」
 立花さんはそっとマグカップに口をつけた。それを確認してからわたしも同じようにマグカップに口をつける。熱いくらいのココアが冷えた身体を暖めてくれる。甘さがわたしたちの距離を近づけてくれる。
「ごちそうさま」
 二人で同時に言ったことがおかしくてつい笑ってしまった。ココアの残り香が鼻をくすぐる。心までくすぐられているみたいでまた笑いがこみあげてきた。
「おいしかった。ありがとうね」
「ううん、わたしこそ。わざわざありがとう」
「また明日学校で会いましょう」
 立花さんがすっと立ち上がった。わたしもそれにつられて立つ。校庭に体操座りをするときの名残でわたしは両手で服をぱんぱんと払った。
「うん、学校でね」
 黄色い背中を見送って手を振る。一度だけ振り返って手を振り返してくれた立花さんは懐中電灯で足元を照らしながら足早に去っていった。
 行ってしまってから思い出したのは今朝のこと。どうしてわたしにあんな反応をしたのかな。何が言いたかったのかな。いろいろ考えてみたけれど、やっぱりよくわからなかった。
 軽い自己嫌悪と寒さから肩をすくめる。マグカップを二つ持って、わたしが家に入ろうとすると、何やら黄色いものが視界の端をかすめた。振り返って確かめると、そこにあったのは黄色い花。初夏に学校にも植わっていた。たしか、マリーゴールド。じめじめとしていた家の庭に、すくっと生えていた。花が季節外れに咲いていることなど気にもならない。暗くてもわかる鮮やかなみずみずしさ。わたしはこのコントラストに見覚えがあった。
 黒、夜の暗闇。灰色、ライトに照らされた少し明るい部分。白、玄関の石段。黄色、この花。
 そして花にはちゃんと新緑の葉が付いていた。まるで花に暖められたかのように雪解けの水が流れる。
 いつもより早い春。北国だけど遅い春なんかじゃない。春がわたしの元へやってきた。そう、彼女とともに。


 親愛なる月野あこちゃんへ(リュウキンカ)         お誕生日のお祝いに。 あなたのともだち、紅瀬奏子より

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