それに深い意味なんかあるはずもなく、ぼくは眠れない夜の退屈しのぎに外へ出たまでだった。
 家の中でのんびりとなんてしていたくなかった。宿題は終わっているし明日の支度もできているのだから、風呂に入り布団をかぶって寝てしまうことだってできたのに、そうしようとは思えなかった。否、そうしたくない、という衝動がぼくの心の奥底から沸々と湧き上がってきたのである。
 ウインドブレーカーを着たのは寒さを懸念したわけじゃなく、ただなんとなく。部活動でそろえた濃紺のそれならば、闇夜にまぎれてしまうこともできよう。
 昼間の喧騒からは考えられないほどに静まり返った道に、深夜ラジオの放送時刻を告げるアラームが空しい響きを聴かせた。ぶるぶると小刻みに震える携帯電話でさえ、ぼくを弱虫だと云って笑っている。
 電灯は青白く、人工的で冷たい光を放つ。
「別に」
 いいよ――聴かなくても。
 口に出すと余計に寂しくなる。周りに同調するわけでもなく、親や先生に勧められたわけでもなく、自ら好んでいたラジオ番組を結果的に聴き損ねることになったが、アラームに気付かず寝過してしまった夜に比べて落胆は極めて小さいものであった。もはや無いに等しい。どうでもいい。
 あてもなくさまよううちに少し大きな通りに出た。
 曲がり角を利用して建つ二十四時間開店休業状態の店、過疎地のコンビニエンスストアには数台のトラックと自家用車にまぎれて、申し訳程度に自転車が止まっている。店内は煌煌と照明が点いており、そのお零れが自転車に降り注いでいた。
 自転車はよく見るとボディが黒く、どちらかというとクールな少年が颯爽と乗っていそうなものだった。大人用とは言い切れないデザインとサイズが妙に印象的で、思わず足を止め、それを見つめた。目下、ノー・パーパスの外出中であるぼくを縛るものは何もない。
「おい、そこ!」
 ――はずだった。野太い声に振り向けば立っていたのは一番会いたくない人物のうちの一人、生徒指導主事の松井であった。下手すると親よりもまずいことになりそうだ。
「ぼくですか」
 とぼけるな、と云われるとまたやっかいなので、申し訳なさそうに云っておく。コンビニの壁面に掲げられた時計をちらりと盗み見ると二十三時半過ぎ。
 深夜徘徊か。自然と視線が地に落ちる。
「岸本か、こんな時間に何やってんだ」
 松井はいつものにやにや笑いさえなくし、ぼくの目の前で仁王立ちになった。
 ぼく自身も先ほどまでの気だるさが引きずって、松井に捕まったら最後だなんていつも騒いでいた割に焦りは生まれなかった。だから言い訳なんて考える気にもならない。
 ぼくは落ちぶれるところまで落ちたのだ。
「どうした、岸本。何かあったのか」
「いや、あの……」
 言葉が続かない。何を言っても結果は変わらないに決まっているとわかったから口をつぐんだ。
 とりあえず事の善し悪しよりも松井に見つかったことが最悪に思ったから、ランニングついでに来ました、という顔をしてやりすごすことにした。どうせ見つかるなら松井じゃないのが理想的だ。何から何までついてない。
 松井の手にはコンビニのロゴが入ったレジ袋が握られている。その重量感からして弁当かパック入りの惣菜がいくつかとペットボトル一本、さしずめ夜食と云うところか。
 だから太るんだよ、まったく。
「お前も馬鹿じゃない。やっていることがどんなことかわかるだろう」
 わからない。深夜徘徊だって云いたいんだろう。それはよくよく承知した上での外出だ。小さな旅だ。というか、ぼくが教えてほしいくらいだ。どうして夜はこんなに寂しいのですか、侘しいのですか、人恋しくなるのですか、と。
 あれ、でもぼくは夜が嫌になったから外に出たのか?
「おい岸本。何か云ったらどうなんだ」
「先生、ぼく――」
「何も話す気がないのなら場所を変えよう。お前、眠る気ないだろう。夜明けまで話すことがたっぷりありそうだ。楽しみだなあ。学校でも自宅でもいいぞ。なんなら警察署でもいいんだがなあ」
 松井イズムが戻ってきた。必殺、思わせぶりな瞳、だなんて勘違いしているのか、頻繁に瞬きをする。
「よし、行くぞ。幸いその身なりなら学校にも入れるしな」
 そう云って松井はぼくの腕をがしりと掴んだ。無論、レジ袋を持つのとは反対の手で。
 その衝撃がぼくを正気に返らせた。
 まずい。深夜徘徊、イコール非行、イコール進路に支障が出る、イコールぼくに未来はない。
 完全に真面目くんではなくとも、学校の中で多少は素直な自分を無理しつつも演出しているわけで、勉強もそこそこにやって小学校からの積み重ねで上の下くらいで保っていて、部活だけは熱心に取り組んでいるつもりだ。前期の通知表には投球練習に余念がない、と書いてもらえた。生徒会活動は毎回欠かさず参加しているし、宿題も毎日きちんとやって提出している。今日だってちゃんとやってあるのだ。あのまま寝て、走りこみの朝練習に備えればよかった。
 気づくのが遅すぎた。
 ぼくを引っ立てていこうとする松井はあまり力を込めていない。掴んだ時こそ効果音が聞こえてくるほど痛かったのに、身柄さえ拘束すれば思い通りになるとでも考えているに違いない。
 ――否、違う。ぼくが動くのを待っているのか。
「任意同行かよ」
「なんだとっ!」
 肘が悲鳴を上げた。松井が再び力んだようだ。暴力じゃないのか、これは。
 痛い。古傷がうずいて思わず目を閉じた。
「岸本くんっ?」
 ありえないはずの少女の声さえ聞こえる。肘が限界だ。ぼくは完全におかしくなったのだ。気が狂った。目を開けるのが怖い。天使や悪魔が飛んでいるかもしれない。猫が話すかもしれない。月が笑っているかもしれない。完璧な現実逃避だ。しかし、そうあってほしいと願う自分がいる。
「先生、離してください。松井先生っ」
 松井――夢の世界に松井がいるのか? なんて嫌なやつ。しつこいにも程がある。
「ほら、岸本くんも!」
 脇腹をドンと突かれて目が覚めた。一体、ぼくの正気はどこにあるんだ?
「何するんですかっ」
 状況を考えれば、これ以上罪を重ねないほうがいい。時間帯からして大きな声は禁物だから、ささやくくらいの声量にしようとして止むを得ず、結果掠れ声を荒げるかたちになった。いくら松井でも脇腹に入れてくるのは無しだろう。
「何って云われても……」
 次に聴こえたのはさっきの女声。幻聴じゃない。声のもとを見れば女がいた。そいつは歯は閉じていて唇は半開き、目はぱっちり開かれていて左手は口元に添えられている。要するに驚いているのだろう。
「塚田はどうしてこんな時間に?」
 ぽかんとしている松井も職務を忘れはしなかったらしい。
「は、塚田?」
 ぼくが云うと、
「塚田汐海です」
 そいつは律儀に平然と名乗った。こんな調子、さっきの慌て様は何だったんだ?
「天体観測ですよ。ふたご座流星群を見るんです。ほら、岸本くん、行くよ」
「あ、うん……」
 ドラマでよく見る下手なウインクとは違う、自然な瞬きのように塚田は片目を閉じてぼくに合図してきた。なんとなく感じ取った指示通り、頷く。
「理科の秋吉先生にもちゃんと許可取りましたよ。サイン、見ますか?」
 塚田は淀みなく話し、肩から下げたポーチに手をかけた。
「いい、いい。見せなくていい。なんだ、岸本も一緒なのか」
「はい。望遠鏡とかセットするのにかなり力がいるんです。彼の腕力、頼りになりますよ」
 左手で頬を押さえてにこりとほほ笑む。暗がりのこちら側からすれば、コンビニを背にした塚田は後光が差した女神のようである。
「じゃあ行こうか。先生、夜なのに大変ですね。わたしたちのために有難うございます」
「おお、まあな。頑張れよ、いい観測になるといいな」
「はい」
 塚田はぺこりと一礼してぼくの手を引いた。同じように会釈して慌ててついていくと、彼女はポーチを肩から外して自転車のかごに入れた。鍵をカチャリと開ける。
 それは黒くて細身のあの自転車だった。
「貸して」
「ありがとう」
 尋ねたいことばかりが脳内で渦巻く。話のきっかけづくりを、とぼくは塚田の自転車を預かり、引いてやることにした。
「あ、こっちね」
 塚田の指さす方向は僕の家とは反対方向の路地だった。はじめから考えなおせばどうせ帰るつもりのなかった外出だ。遠回りではあるけれど、いいだろう。
 コンビニの駐車場から出て道なりに進もうというとき、ふと振り返ると松井が車に乗り込むのが見えた。そういえば、あのレジ袋。そろそろ弁当は冷えてきたんじゃないだろうか。ペットボトルの中身も温くなってしまっただろう。ぼくなんかを捕まえていい気になるからいけないんだ。ははは、と心の中で笑ってやった。
 自転車を挟んで二人、並んで歩く。病人のように見えた電灯が今はスポットライトに見える。ところどころに立つそれが、塚田の横顔を照らした。学校では後頭部で一つにくくっているからわからなかったけれど、髪は背中の半分を隠すくらいに長く闇に溶け込むような黒だった。彼女が見たくて何度かちらりと横を見たけれど、その度に何か話さなくてはと思って、焦った。
「岸本宏也です。あの、助けてくれてありがとう……」
 浮かんできた疑問や何かはとりあえず置いておき、とりあえず感謝を述べた。
 小学校の時に、悪いことをしたらこれこれをこうしてしまってごめんなさい、何かしてもらったら、これこれをこうしてくれてありがとう、と理由をつけて話すように言われた経験はないだろうか。あの角ばった、言わされている感が前面に出されるやつだ。
 とは云えはっきり伝えたいことであるのは確かだ。しかし語尾が曖昧になってしまう。僕が彼女に気圧されているのか、はたまたあんなめにあったあとだからか。助けてもらった身なのだから、格好悪いことに変わりはない。
「理由は訊かないから」
 え、と声を漏らすと、塚田は前を見たまま口角をきゅっと上げた。
「ふたご座流星群ね、すごいときには一時間に五十個とか六十個とか見られるんだよ。毎年毎年堅実に、活動度も高くて大気の透明度もいい時期で、ちょっと地味な流星が多かったりもするけど、満月くらい明るいのも見られたりするの。綺麗なんだよ。きっと好きになるよ。絶対また見たいって思うから」
 それだけ早口にまくしたて、急に僕の手に自分の手を重ねてきた。
 公園のベンチで二人、って時だったらよかったけれど、この場合はそんなに青春の一ページらしいものでもない。ただ自転車のハンドルを奪われただけだ。正しくは、取り返されただけ。重ねた、といっても指一本分触れたか触れてないかという程度だ。甘くない。むしろその中途半端さが苦い。
「ここでいいよ。岸本くんの家、反対方向でしょ」
「あ、ああ、そうだけど……」
 強い力で引っ張られて僕の手から自転車が離れた。空っぽになった僕の両手が宙に浮く。
「早めに寝なよ」
 明日は月曜か、とつぶやくと、もう月曜だよ、と小さな声が返ってきた。携帯電話をちらりと見ると、確かに、二十四時を回っていた。
 塚田はじゃあね、と言ってそのまま自転車を引き、小走りに行ってしまった。何か意図するところがあってか、近くの曲がり角に消え、僕は追うことができなかった。
 両手は拳をつくり、僕の身体の横へ降りてきた。夜風がさわさわと路地を吹き抜ける。
「帰るか」
 僕はくるりと向きを変え、家路を急いだ。どうして外に出てきたのだろう、こんな目にあったのだろう、塚田に助けられたのだろう。いろいろ知りたいけれど、今は一刻でも早くあの暖かいベッドに入って眠りたいと思う。
 明日、学校で塚田と話そう。訊きたいことが山ほどある。何よりあいつと少し話してみたいから。
 眠い。今は夢か現かさえわからない。もし今が現ならば夢に塚田が出てきそうだ。松井の出演は拒否したいけど、回想シーンに秋吉先生が出てくるのも悪くない。
 

 

静かにはじまる月曜日  

 
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