涼香は頭の回転がとても速かった。感情を表に出すタイプではなかったので、その薄い唇からときどき零れる生硬で長ったらしい一流大学の論文のような言葉は聴く者の耳を従順にさせ、抗う気力さえ無くさせた。それを知ってか、涼香は人とふれあうのを嫌っているように見えた。
 そんな涼香は皆と一緒に何かをするのは嫌いではないらしい。学校には週に一、二度来ており、文化祭や体育祭の類は、とりあえずクラスメートと一緒にそれなりに楽しんではいたようだ。みんなの輪から数歩離れたところで、クラスに存在してはいた。彼女は好んで運動をするほうではなかったので、校庭が賑やかになるお昼休みにはご恒例のドッジボールには参加せず、窓際の席で静かに本を読んでいたりノートに何やら書きつけていたりすることが多かった。体育の時間に一度だけ彼女がドッジボールをする姿を見たことがあり、そのときの球の捉えかたに感銘を受けたぼくは、その日の午後、彼女をドッジボールに誘った。けれど彼女はちらりとこちらを見て、日焼けするのは嫌なの、と自分の髪を撫でつけたっきり、手もとの本に視線を戻して再び読書に没頭してしまった。ぼくのチームはその頃ちょうど負けが立て込んでいて、彼女の戦力が必要だった。だから思わず、色白だからいいじゃん、と悪態をついてしまった。すると涼香は本をパタンと静かに閉じた。息をフウッとはく。にらまれるかと思ったら、彼女はにこりと笑った。
「髪が傷むでしょ」
 窓から吹き込んだ風が涼香の髪を揺らす。涼香は頬にかかるそれを右手で払いのけた。漆黒の髪の間からのぞく彼女の表情はまた無に戻っており、その視線は斜め下の本に注がれていた。気が向いたら手を貸してよ、とだけ言葉を残し、ぼくはそそくさと外へ出て言った。ただでさえ負けてばかりいるのだ、ぼくの戦力がドッジボールに必要なのはわかっていたから余計に焦らされた。
 靴のかかとを踏みつけたまま、校庭に出て、お待たせ、と叫ぶとあちこちから、遅いぜ、待ってました、との声が返ってきた。ボールは一時停止、ぼくがコートに入った瞬間、ゲームは再開された。快刀のように懐へ飛び込んでくるボールを両手でしっかと受け止め、そのまま身体をばねにして投げる。視界の延長線上、ふと見上げた窓には涼香の横顔が見られた、といっても重力に従って垂れ流された横髪と白肌の首だけであったが。
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 涼香の机の上に白菊が飾られたのはそれから数週間後であった。過ぎ行く夏は思い出と少しの切なさだけを残して去っていった。最近あまり学校に来ないなあ、などと話していた矢先に飛び込んできた突然の訃報に、ぼくらは戸惑いを隠せなかった。蒸し暑い教室内、ぼくらは静かに悲しみに浸るなんてできず、言いようのない焦燥感に蝕まれてただ二酸化炭素の排出を続けた。
 誰もが何も物が言えなかった。何故なら、涼香と親しい人間など殆どおらず、皆それを知っていたからである。親族に合わせる顔がなかった。涼香との思い出など色褪せたものばかり、行事の中の群像のうちの一人なのである。
 始業のチャイムが鳴っても先生は来なかった。物音一つしない教室は薄気味悪い。普段は授業中だろうが集会中だろうがおかまいなしにギャグを連発する男子もこの時ばかりは空気を読んだらしい。おしゃべりに命をかけているといってもいいほどよくしゃべる女子たちもうつむき、机とにらめっこしている。
 しばらくして学級委員長が静かに立ち上がり、皆はそちらをちらりと見遣った、机に伏せていた女子も窓から外を見ていた男子も。無音の場だからこそ、動きが気配でわかる。
「先生、呼んでくるね」
 廊下を早歩きするパタパタという音がやけに重く、響いて聞こえた。
 
 あとから来た先生の話は通夜はいつだとか葬式は代表者のみ参列を許可するだとかそういった儀礼的なもので、涼香の死因や境遇などは一切明かされなかった。正直なところ、先生も知らないのではないかと思う、涼香ならそれが有り得る。
 通夜に来てみて、初めて涼香の家族を見た。母親らしき女性は参列者の対応に忙しくしており、兄らしき青年が壁に寄りかかっている。感情のない、というよりは感情を押し殺している。平然とはしているが、逆にそれが痛々しいと思えるほどの無表情さだ。
 ぼくが涼香をよく知らないように、涼香もぼくのことをよく知らなかったと思う。先ほどの女性がぼくらのところへ来て、学校の友達かしら、と訊いてきた。はい、と首を縦に振ると彼女は、涼香の母です、と消え入りそうな声で言った。
「柳司」
 涼香の母に呼ばれて青年がこちらを向いた。初めて瞳に意志の光が点った。
 涼香の兄です、と柳司さんは会釈した。境遇からは考えられないほどの柔らかな笑顔であった。
「あいつに会ってやってよ」
 言われなくてもそうさせてもらうつもりだった、異存はない。

 人一人いない部屋は陰気で、黒い祭壇に飾られた写真の、涼香の白肌だけがひときわ輝いていた。
 その表情は、ぼくと話す前の柳司さんの顔とよく似ていた。しかし、あふれる想いを押さえる様な辛さはなく、自らの意思で無をつくっているように感じられた。今まで見てきた横顔を真正面から見たら、こんな感じだったのだろう。
「華がないだろ、この写真。いいのがなかったんだよ」
 笑ったことないんじゃないかな、と柳司さんは寂しそうに笑った。その言葉が木霊する。
 確かに遺影は笑っていない。でも、涼香はあんなに綺麗に笑えるやつだった。柳司さんに似て、柔らかな笑顔。黒髪と白肌のコントラストがまぶしかったあの日の笑顔。
「ぜんぶ、こんな顔してた」
 でも、と喉まで出かかったが慌てて飲み込んだ。こんなところで口論になっても仕方がない、涼香に申し訳ない。それに、柳司さんがそっと目尻を押さえたのを、ぼくは見逃さなかった。
「もしかしたら、きみには見せたのかもしれないね」
 柳司さんは母親の元へ戻ると言って早足でいってしまった。一人取り残されたぼくには、遺影が少し歪んで見える。
「ありがとう」
 何故かそう言っていた。世話になったことも、世話したことも当然ないのに、何か大切なことを教えられたような気がしたからだ。礼を言いたい衝動なんてそうそうあるものではないから、ぼくは瞬時にそれを受け入れた。ただそれだけ。
 目から零れる滴をぬぐうと、涼香はまた無の表情に戻っていた。
 

 

あの日確かに世界は笑った (title by さかな様)

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