地に落ちて力なくバウンドする声に反応してちらりとそちらを見遣ると、彼は面倒くさそうに言い直した。 
「暑い」
 彼は身体を机に預けてぐったりとしている。唯一動いているのは右手首、しかしそれも重力に任せて下げ、その反動で僅かに持ち上げ、なんとか上下するだけである。握られているうちわは確か校門付近で派手な色のポロシャツをまとった女性が汗も拭わずに配布していたものだ。表は学習塾による夏期講習会の案内で、裏は広告募集、サークルの宣伝にいかが、といったところか。確かに財布が膨らんだサークルは掲示板やビラなんかよりもポケットティッシュやうちわを媒体に選ぶ。それは目に留まる確率が高くなるからというよりは、ただ単に余裕を見せたいだけらしいが。
 彼は手首を上にあげる気力も無くしたようで、数秒の間、完全に動きを止めた後に再び、暑い、と呟いた。
「ちょっと待っててってば」
 わたしはフラスコに液体窒素を入れながら答える。肌にまとわりつく気だるい暑さに支配されているのは、わたしも彼も同じだ。少しでも風をつくって頭を冷やそうと首を振ると、ポニーテールが力なく揺れた。
「時雨の家、クーラーとか無い訳」
 歩いて五分だろ、と彼は悪態をついた。
 わたしは学生寮を利用していない。ほとんど家に帰ってこない父が昔、この大学の教員をしていたので、大学の目と鼻の先に自宅があるのだ。家から校門までより、校門から研究室までのほうが距離が長いほどである。だから、将来の夢を見出した訳でも学生生活を楽しみたかった訳でもなく、貴重な睡眠時間を確保するため通学時間をいかに短くするかというところがわたしの大学選択の第一観点であった。
「あっても使わないの。わたしが機械類嫌いなの、知ってるでしょ」
 ボタン一つで冷気が流れるなんてそんな都合のいい話があるものか、と幼少時代に本気で思っていたわたしはいまだに機械が嫌いだ。人間は怪我をしようが病気になろうが多少は頑張れるけれど、機械は故障したらお手上げ状態だから。
 居候とまではいかないものの、あまり裕福ではないらしい彼はふらりとうちに来ては父のご飯を食べ、父のベッドで熟睡し、父の椅子に座って新聞を読み、帰っていく。ある日、迷惑だ、と告げると、毎食二食を用意して二人分のベッドメイクをする健気なお前のためだ、とあっさりと言われた。いつから来るようになったかは覚えていない。雨宿りだったか、ただの気まぐれだったのか、押し掛けだったのかさえも記憶にない。いつのまにか、というのが妥当であろう。今となっては空気のように当たり前に存在している。
「他に研究室、空いてないのかよ」
 試験管のカチャカチャという音が彼の低く抑揚ない声とが空しく調和する。あまりにも高低差がありすぎて、どんなにうるさく手を動かしても、声が聞き取れないことはない。
「無いんじゃない。あっても借りれないでしょ、教授がいないんだから」
 休講の知らせは学生寮に入っている人たちには口頭で行き渡ったらしいが、連絡手段のないわたしと彼にまでは届かなかった。教授が夏バテで倒れたとか身内の不幸だとか急な学会だとか口伝えの特性上、真相はわからないけれど、とにかく休講は休講。まあ、でもその上研究室のクーラーが故障とくれば休講の理由がなんとなくわからないでもない。
「じゃあ自習室とか学食とか、涼しいところに行こうぜ」
「だからもうちょっとなの」
「ていうか、何やってんだよ」
 声のくぐもりが消えた。彼が初めて顔を上げたらしい。
「今度扱う薬品で持続性の冷気つくれないかなって」
 機械がだめなら薬学で何とかすればいい。薬品庫まで行かずともこの研究室に大体望みの品は揃っていた。
 それなら、と彼が声を潜める。
「エタノール浴びて、水槽に飛び込めば」
 笑えない冗談には、鼻を鳴らして応対してやる。彼はハハハと朗らかに笑い、それで、と続ける。
「何混ぜたの」
 わたしは気泡の立つ青い液体をにらみつけたまま四つほど薬品名を述べる。手元の瓶のラベルを見なかったのは少しでも誇りを持ち続けたかったから。どうせ、わたしのちっぽけなプライドなんて、彼の手にかかれば一瞬で砕けてしまうから。
「貸してみな」
 ほら。この笑み。
「嫌だ」
「貸せって」
「自分でやる」
 鋭い溜息が聴こえて、椅子を引きずる音が鳴った。革靴を嫌う彼は履き慣れたスニーカーで音もなく近寄ってくる。
「青か」
 彼の吐息と、うちわの生む心ばかりの風が首にかかった。試験管を支える指が小刻みに震えはじめる。
「色彩効果を期待して」
「赤じゃ駄目な訳」
「冷たければ文句ないけど」
「あ、そ」
 仕草で紙とペンを要求され、ポケットから取り出して従順にそれを渡す。
 気休めに、と回している換気扇の音が半音高くなった。彼はあごを触っていたかと思うと、考えがまとまったらしくすぐに紙にさらさらと化学式を書きつけた。
「二、三滴でいいから水垂らしてみな」
 彼は紙を机上にぱらりと置くと、ビーカーに水を汲んで持ってきた。
 化学式を見せられても、わたしにとってはもはや未知の世界。優等生と呼ばれるのにはもう慣れっこのわたし、天才と呼ばれるのがあたりまえの彼。先天的なものは彼のほうが確実にたくさん持っているのではないだろうか。
 フラスコを奪われ、反論しようと口を開いたが言葉が続かない。息がシュウシュウと漏れるだけで、ガラス棒を伝いながら混入させられる滴を静かに見守るしかできなかった。青から紫へ、少しずつ赤味を帯びていく。
 彼のよし、という言葉を合図に、その手首はくるりと弧を描いて予想もしない動きを見せた。液体が、零れる。映画なんかでよく見るスローモーションなんかじゃなく、物理的に申し分ない落下、速度も方向も状況に合っている計算問題として出題してもいいほどの正確さ。
「お」
「あ」
 声が重なる。空気に触れた赤紫の液体は床に落ちる前に奇抜な桃色に染まり、桃色の気体が室内に充満した。
「持続性の冷気、よくて一時間ってところか」
 彼は器具を水道場にぶちこみ、洗っといて、と一言残し、再び机に戻って伏せた。先ほどまで重宝していたはずのうちわは既にごみ箱へおさまっていた。
「ありがと」
 翻弄されっぱなしのわたしは聴こえないように小声で礼を言うと、室内の窓を閉めて回った。さすがに桃色の冷気が漏れていたら、しかもそれが休講の予定の研究室だったら大問題に発展する可能性があるからだ。

 しかしわたしは再び窓を開けに歩き回ることになった。紺色のワンピースは夏用、薄すぎて肌寒い。他に着るものがないので仕方なく近くにたたんで置いてあった白衣を広げると、彼の名前が小さく書いてあるのを見つけた。
 寝息で彼を感じて目を遣ると、案の定肩を上下させながら居眠りをしていた。
 睡眠中、体温が下がるというのは常識だ。風をひかれては困る、とわたしは袖を通しかけた腕を抜き、白衣を彼の肩にそっとかけた。
 冷気は徐々に色味を失い、完全に空気と一体化した。しかし何故か気温は下がる一方である。慌てて窓を開けたけれど、室内は寒くなるばかり。それに全身を脱力させる眠気も襲ってきた。白衣を掛けてやった手が上げられないほどの威力、彼の肩から背中へ両手が流れる。
 ぺたりと尻餅をついた床は冷気の影響か少し湿っていて不快だったが、流れる身体を支えてくれるものなど一つもなく、わたしは床に倒れた。冷気にまどろみ、湿気に沈み、ふと、実験中の死亡事故というテロップが脳内をよぎる。
「わたし、死ぬの……?」
 そしたら急に目が覚めた。全身の脱力感は抜けないけれど何とか力を入れて立ち上がり、彼の肩を掴んで激しく揺らした。彼はムともンとも言わず、伸びもせずに半開きの目でわたしを捉えた。焦点は定まっている。やや屈んだ状態のわたしと、身体を机に乗せた状態の彼と、完全に見つめあう。瞳から瞳まで視線の通り道があるみたいに、まったくぶれない。
「何、誘ってんの」
「べっ、別にそんなんじゃ――」
 ない。思わず語尾を飲み込む。
 髪を結わえていたゴムをするりととれ、わたしの後頭部に添えられた大きな手から髪がふわりと零れた。
「何してんの!」
 寒さも忘れて大声を張り上げると、彼はいかにもうるさいなあと言うように顔をゆがめた。
「キスしてみようかなーって」
 顔が赤くなるのがわかった。頬が火照る、つまさきがしびれる。
 わたしは平手打ちをお見舞いし、荷物をぶちこんだままの鞄を抱えてそそくさと研究室を後にした。
 

 

 

夏に溺れる

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