チョコレートにまみれた甘ったるいパフェを突きながら、これを口に運ばねばならない状況に至るまでの経緯を回想する。
 
 予備校のロビーで日焼け止めのクリームを肌に広げた。ふと視界に入ったガラス窓の向こうは熱気に歪められている。受験生の為にとクーラーで冷やされた校舎を出れば、都会は熱帯、ビルを冷やせば冷やすほど気温は上がっていくという悪循環は止まることを知らない。
「いっそのこと、東京の冷暖房機能全部ストップしちゃえばいいのに」
 そんな呟きは女子の甲高い声にかき消され、空調の音に飲み込まれ、わたしはいそいそとその場を後にした。
 買ったばかりのピンヒールはまだ少し大きく、足を前に出す度に踵が靴から離れてしまうという問題点を抱えて、それでもそれを履いた時の優越感と言ったらなくて、普段見上げている人と同高の目線で話すのはちょっぴり大人になれた気がするのだ。
 しかし転ぶときは派手に転ぶ。以前、友達と映画を見に行った時もちょっとした下向きの傾斜で足が前に出るのをこらえられず、つんのめって足がもつれてふらついて。ポップコーンとドリンクのセットを友達に持ってもらっていてよかったとつくづく思う。
 そう、わたしは転んだのだ。往来の真中で、気取って歩いていたとき。
 どうか考えてみてほしい。コンシャスとまではいかないまでも、割かし上品なシャツにショートパンツというスタイルでピンヒールを履いた女子学生が、突然、段差も障害物もないところでバランスを崩して倒れるのだ。それに立ち会ってしまったある意味不幸な民衆は、クスクス笑うか憐れみの眼差しを送るかして立ち去るのが際であろう。
 それなのに何故か、何故か気まずそうに声をかけてくる不届き者がいた。現在、目の前でパンケーキのアイスクリーム添えを口に運び、時折その冷たさに顔をしかめる数学教師、青柳である。
「桜木さん」
 語尾を上げた疑問調子でわたしの名を呼び、彼は持っていた鞄やその他の資料をすべて左手に持ち替え、右手を差し伸べてきた。それに甘える。
 なよなよと黒板にチョークを走らせる様子から脆弱に思っていた細い腕は意外と筋肉質で、わたしの身体は簡単に引き上げられてしまった。
「案外軽いんだな」
 青柳は小さいもんな、とわたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。わたしが膨れていると、
「でも背が高かったから、はじめは誰かわからなかったよ」
 こんなタッカイパンプス履いて、と青柳はケラケラと笑った。そして急に真顔になったかと思うと、こう言ってきた。
「お礼だかお詫びだかわかんないけど、ちょっと、付き合ってよ」
 どうせ暇なんでしょ、と付け加えて、青柳はわたしの胸に資料を押しつけてきた。重量感のある茶封筒には、ぎこちない筆記体でアオヤギヒロノブと書いてあった。
 先だって歩く青柳は廊下を歩くときよりも明らかに遅く、もどかしいほどにゆったりと進む。
 わたしはその意味に気付かなかった、抱えた資料の重みと挫いた足の痛み、それらに対する気遣いじゃないか、と、形の良い背広が迷いなく小奇麗なカフェに吸い込まれ、そこで案内された席に着く彼が微笑むまでは。
 
 いやに愛想のいい店員に案内された席は四人掛けのテーブルで、窓側の奥に彼が座ったのでわたしはその斜め前に腰を掛け、自分の鞄を彼の真向かいの椅子に置いた。
 次に青柳を見た瞬間に彼はメニューを立てて開いて食い入るように見つめ、どれにしようかとあれこれ考えていた。よっぽど空腹なんだろう。もしかしたら午前中いっぱい何かの研修でもあったのかもしれない、と教師という職業の過酷さを考慮して、彼らしくない振る舞いには目を瞑ることにした。
「あの、これはどうしたらいいんですか」
 儀礼的に尋ねると、ああ、そこに置いてよ、と青柳はテーブルの左の方を叩いた。視線はメニューからずらさない。
「好きなの頼みなさい」
 わたしはこれで失礼します、なんて断ることもできず、開かれたメニューの一部をいい加減に指差した。
「チョコレートパフェ、だな」
「あ、はい」
 メニューの端から覗く目と、目が合う。授業中はいつも捉えようと必死になっている視線を手に入れたわたしは今更ながら恥ずかしくなって慌てて明後日の方向を眺めた。ちょうど冷水やらお手拭きやらを運ぶ先ほどの店員が目に入る。
「そうか、もうこんな時間か」
 やけにのんびりとした口調がなぜか気になって青柳に視線を戻すと、彼は腕時計を見たところだった。口の端がやや上がっており、機嫌の良さがうかがえる。
 
 青柳が注文する声も店員の確認の声もろくに聞かず、わたしは胸元のリボンを退屈な指で弄んでいた。
 周囲の目にどう映っているのか、と考えたらちょっと肩身が狭かったから顔を上げるのも嫌だった。それに、こんなに近くで誰もが変人と称する数学教師の顔を見るなんて耐えられなかった。
「桜木さん、もしかして僕のこと嫌いなの」
 その一言を皮切りに、青柳は授業と同じ柔らかいバスでまくしたてた。
「援助交際とかそういうふうに呼ぶのかな、僕らが周りにそう見えているんじゃないかと思案しているんだろ、それなら心配に及ばないよ。いけすかない中年と君みたいな若い女性のペアなんていくらでもいるだろう、少し視界を広げてごらん。親子かもしれない、親戚かもしれない、漫画家と編集者かもしれない、上司と部下かもしれない。君は君が見る二人組をいつもそういう関係だと思っていたのかい? おそらく気に留めたこともないんじゃないかな。一人でいるときは考え事、誰かといるときはいかにその人と楽しむかいかに修羅場を切り抜けるか、考えているのが普通だろ。幸せな、しかも若い女性に、周りを見る余裕があるとは思わない」
 それに、と彼は続けた。
「君が君の知人に逢うことのほうが怖い」
 似合わないウインクに、思わず笑みを零してしまう。しかし青柳はわたしが彼の話に笑ったと取ったらしい。資料に目を通しつつも、ここのマスターとは高校からの仲なんだとか夏は冷えたビールよりアイスクリームがいいだとかいう小ネタに始まり、そのうちに数学の教師になったきっかけとか夢とか希望とかスケールの大きなところまでいろいろと話してきた。しかしよくある模試はどうなんだとか夏休みの予定はどうだとか、わたしに文章の答えを求めることは話してこなかった。賛成か反対か、イエスかノーか。はっきりいって、はい、と言っておけば乗り切れるような、そんな会話だった。否、会話と呼ぶにはわたしの発言が少なすぎる。ラジオを聴いているのと変わりない。さしずめわたしはメディアにわざわざ相槌を打ってしまうちょっと純情な少女。
 
 こうして今に至る。青柳のパンケーキを口に運ぶスピードはあまり早いとは言えないが、わたしの目の前にそびえるチョコレートパフェよりは遥かに減りがよく、だらだらに融けたアイスクリームがパンケーキの滑りをよくし、温度的にも食べやすくなっているようだ。
 今度は気付いている。青柳の優しさはわからなかったが、欲望ならわかる。彼はわたしのパフェを狙っている。隣の芝生は青い、とでもいえばいいのだろうか、彼の目は、資料、パンケーキ、わたしを順番に見ていると思っていたが、彼が見ているのはわたしではなくチョコレートパフェ。余りを食べようとしているのだろうか。食べきれる、などと訊いてくるあたり、あやしくてしょうがない。
 確かにこれは大きい。しかも今のところ、わたしは自分の財布の口を緩めるつもりはない。彼の口にチョコレートパフェを入れるつもりもない。
 彼がプリントを配る度にぺろりと舐める指が、いつこちらのチョコレートパフェに伸びてくるかと懸念しつつ、わたしはわたしの脳にアオヤギヒロノブという人間の情報を検索して集めるように指令を出してみた。また、新たに何か書き込めそうな気がする。
 

 

 

 

けていくのは

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