ただいま。
 有り得ないと割り切る心のどこかで期待してしまう返事は、今日も帰ってこない。せめてもの慰みに、心の中で、おかえり、と呟いた。
 別に、親の愛とかスキンシップとかそういうのは望んでいないけれど部活帰りの夜八時二十三分、真っ暗な家に帰ってくるのは少し空しいものがある。ここはマンションの八階、夏場は熱気がこもるから尚更だ。
 脱いだ制服をハンガーにかけ、体操服姿になる。いつまでたっても慣れない虚無感にいらだちを感じ、それが誰の得にもならないことを知りつつ鞄の中身をベッドにぶちまけた。散乱するものたちを一つずつ拾い直すと、思わずハアとため息が漏れた。弁当箱と水筒は流しに、親の承諾を得る必要のある書類は母さんのデスクに置く。朝起きる頃には印が捺された書類と弁当が朝食と共に食卓に並べられていることだろう。母さんは仕事を言い訳に家事、育児を疎かにしない。今までだってそうしてきてくれた、できる範囲のことは。
 夕食前にシャワーを浴びると、体にはそれなりの清涼感を得られた。気に入りのシャツがぼくを癒してくれる。
 スポーツタオルで髪の水分をざっと拭き取る。狭まった視界が捉えた食卓には、テレビのリモコンと新聞、ランチョンマットの上に伏せられた茶碗、グラス、それからメモが一枚乗っていた。
「夕飯は冷蔵庫の中、か」
 口に出して読む。走り書きであることには違いないのだが、読みにくさを感じさせない不思議な字だ。親子なのに、全然違う字を書く。
 メモをそのあたりに放り、くるりと踵を返して冷蔵庫を開けると、二段目の手前側に深めの皿に盛られたクリームシチュー、レタスときゅうりを切って和えただけのサラダが無機的なビニールを被っているのが見つかった。それらと、少し迷って、和風のドレッシングを一緒に取り出した。
 シチューを電子レンジで温める間に、保温のランプがついたままの炊飯器から茶碗にご飯を盛る。飲み切らなかった水筒のお茶をグラスに注いで並べると、形式上はそれらしい夕食になった。
「いただきます」
 僕が席に着いた僅かな衝撃で食卓の真上にぶらさがっているランプが儚く揺れる。空っぽの部屋に少しだけ響くぼくの声は、共に食事をする相手を求めているようにとれないでもなかった。
 
 グラスのお茶を飲み干し、水筒からまたそれを注いだ。水筒をテーブルの端にカタンと置いたとき、ふと先ほどのメモが目に入る。夕飯は冷蔵庫の中、ではなく、いいものあるかも、と書かれている。気になって手に取り、裏を返すと予想通り、夕飯は冷蔵庫の中、と母の字が踊っている。
 期待しつつも、語尾の、かも、に戸惑いを感じている。
 美味しい。でも味気ない。どれだけ食べても料理そのものの美味しさがない。口の中に広がるのは、シチューが好きだという事実が生む錯覚。
 残りのシチューをかきこんで、皿を流しに入れた。弁当箱や水筒と一緒に、軽く水ですすいで食器洗浄機へ放り込む。
 手を洗ってタオルで水気を拭い、宿題でもやろうかと部屋に戻るため踵を返すがやはり、いいものあるかも、が気になって、ぼくはほぼ無意識のうちに冷蔵庫の前に立っていた。
 粘着性のあるゴムの音、冷蔵庫を開ける。先ほどシチューとサラダが入っていた場所はぽっかりと空いていたが、その奥にピンク色で上質の包装紙にくるまれたものが目に入った。他のものとは違う、日常性がまるでない。庶民的な鮭のフレークが入った瓶と並ぶその姿は、異様でもあった。
 わからないけれど、手に取る。中身はプラスチックのカップだ。縁を摘むように持ち上げると、カップのその中身のものがぷるんと揺れる様な感触があった。
「ゼリー、水ようかん、ヨーグルト、ナタデココ」
 可能性のあるものを口に出してみる。それと同時に手はカップからピンクを剥がす。誰かへの贈り物だといけないので復元できるように折り方を覚えつつ、破ってしまわないように慎重に。
 徐々に頭角を現してくる、初めに見えたのは茶色の焦げ目。ところどころに小さな穴が開いている。
 広げたピンクの上にちょこんと乗っかってぼくを見つめるのは小ぶりの焼きプリンだった。
 製造者名もブランド名も何も書かれていない。ホームメイド。横からカップを覗くと見える層に入ったひび、傾けると他の層に入り込んでしまうカラメルソース、市販にはない愛らしさがある。
 そうか。母さんがつくったんだな。
 ぼくは根拠のない、でもそうであってほしいという願いは口に出さず、手もとの引き出しからちょっと上品な銀のスプーンを取り出して、上の方をすくってみた。口に運ぶ。
 甘ったるい。
 料理は嫌いではないが、する時間がないという母さん。いつこんなものをつくったのだろう。
 感じていた孤独は、中蓋と一緒にごみ箱に捨てた。舌を溶かすような甘さと柔らかさが口いっぱいに拡がる。
 飲み込んでしまっても後を引く愛らしい味。ぼくは幼年時代にタイムスリップした気分にさえなれた。穢れなど知らない、無垢なぼく。今は隣にいない母さんがそのときはもっともっと近くにいて、ときどき抱きしめてくれるときの柔らかさ、それから甘さ。この焼きプリンが与えてくれた。
「なんで、わざわざ」
 焼きプリンにしたんだろう、としょうもない悪態をつきつつ、素直になれないぼくを笑いつつ、ぼくは最後の一口をぷるんと喉に滑らせた。 

 

きプリン

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