もう何年前の約束だろうか。薄れていく記憶はそれが持ついくつかのタグから偶然に、わたしの日常に引っ張り出された。
 彼に会える。そう思うだけで胸が高鳴ってしまうわたしは好きになれないけれど。
 
 わたしの通っていた私立高校の敷地内には大きな森があった。青々と生い茂る葉が中を見せてくれないその森には蜂の巣があるとか蛇が出るとかで、生徒の侵入は禁じられていた。
 しかしわたしはその掟を破ったことがある。

 それはちょうど文化祭の最終日。それも最終プログラム、わたしは後夜祭で目の当たりにした達成感からくる恍惚とした無数の表情たちを、忌々しく思った。学級の出し物に対して、初めはあんなに協力を渋っていたくせに、準備なんてろくにしなかったくせに、何故最後だけちょっと頑張ってみるのか、いい思い出であると思い込みたいためだけに何故そういったずるさを追求しないのか、と。だけど自分も嫌悪の対象であった。楽しい三年間だった、と卒業式で泣くためにはここでの失敗は許されない。そう思ったからずっといい顔をしてやった。案の定それなりに楽しく打ち込める催しになり、わたしは心から顔をぐちゃぐちゃにして笑った。でも後から思い出す自分は馬鹿馬鹿しい。お嬢さまのような裾の広がったワンピースを着て笑顔を振りまく滑稽な人形。
 校内放送で、出し物の撤廃が命じられると同時に後夜祭が始まる。看板を下ろして壁に施した装飾を取り外すなど簡単に片付けをする裏で順々に、狭い更衣室を使って制服に着替えた。ほとんど会話もなく、指示と返事だけが飛んで信じられないくらい素早く片付ける原動力は、早く中庭に出たいという思いから来ているようだった。わたしはカーテンの陰に潜んで窓にこびりついてしまったセロハンテープを剥がしていたために、更衣室空いてるよ、というお誘いの対象になれなかった。なかなか声を掛けてもらえなかった。だから制服姿の男女が誘いあって中庭へ赴く中をすり抜けていき、誰もいない更衣室でいそいそと着替えた。ネクタイを結わえ直すと浮ついた気持ちがリセットされた。友と語らいながらワンピースを脱ぎ、スカートをいつもより短めにしてはしゃぐ、なんてことをしていれば興奮が冷めることもなかったのに。
 施錠をして、鍵を胸ポケットに入れる。どうせこれは頼まれていた仕事だから職員室へは後で返しに行けばいいと思った。教室の電気も消されて、窓の向こうから聞こえてくるのはどんちゃん騒ぎ。廊下の白熱灯だけが空しく照っていた。
 素直に騒ぎに加わろうなんて思えず、木陰に置かれたベンチに腰掛けてハアと息を着いた。ポケットの中の固体が太ももにあたって邪魔だったので取り出す。買ったばかりの薄型デジタルカメラだった。紐に手首を通し、特に意図もなく前方を何枚か撮ってみたが、冷たいシャッター音も眩しいばかりのフラッシュも、この騒ぎの中、これっぽちの存在意義も持たなかった。
 突如、群衆が静まる。軽音楽部も慌てて演奏を終えた。ツインギターの一人がまだ夢気分であったのだろう、とってつけたような無理やりな和音が不快に乱れた。それに気付くのは吹奏楽部の神経質な者くらいだろう。わたしとか、わたしとか、わたしとか。群衆の意識は既に別のところへ注がれていた。
 理事長が生徒会役員に伴われて出てくる。優秀な出し物への表彰が行われるのだ。群衆は誰からともなく大体学級ごとに集まろうと渦を巻く。歓声も罵声も笑みも涙もよっぽどみんなと一緒がいいとみえる。わたしという学級委員長を欠きながらもそれに気付かずメインステージの前を陣取っているクラスメイトの姿が下級生の肩越しにちらほらと見えた。わたしはカメラを握ったままの右手を身体の横にだらりと下ろした。
 もはや異様とも言える光景であった、興奮から、身体が揺れ始める。弾み始める。プールに入ったときに自然にふわりふわりと底を蹴って跳んでしまう、あれと同じ。中庭のコンクリートに打ちつけられる踵の痛みなんて諸ともせず、群衆の頭が上下に振れた。
「隣、いい?」
 その言葉で思考の対象が自分に戻る。声の主を見上げると、クラスメイトの真代がわたしを覗き込むように首を傾げているのが目に入った。
「マ、シロ――」
 口に出すと現実味が湧いてくる。彼は今回の出し物で実行委員長を務めたのだ、居残りだって一日も欠かさず参加して仕事の持ち帰りだって嫌な顔一つせずに、この行事に最も打ち込んでいたであろう彼が、どうしてあっちの群衆に属さない。
「真っ白とか古い」
「行かなくていいの」
 下品と知りつつ、マイクを片手に朗々と語る理事長を顎でしゃくる。真代と目は合わせない。その仕草をしたという事実のせいで僅かばかりの罪悪感に苛まれる自分を馬鹿だと嘲笑したかった。
「そっちこそ」
「わたしはいいの」
 足を前へ投げ出して身体を前に折る。真代との応酬を発展させる気などさらさらなかった。彼が言葉を次ぐのを拒絶する。肩が伸びる程よい痛みが心地よかった。
「ま、いいか」
 彼はクスリと微笑んで、わたしの右側に落ち着いた。
「幸野さ、踊る気ないよね」
「いまはね」
 後夜祭のフォークダンスのことを言っているのだろう。尤も、あれはフォークダンスというよりはブレイクダンスに近い狂気の沙汰であった。ただの乱舞。しかし昨年のわたしがあの輪の中にいたことも事実である。軽蔑するつもりはない。むしろ楽しかった。
「じゃあちょうどいいや。俺も疲れちゃってさ」
「ろくにご飯も食べないで働くからだって」
「いや、一応おにぎりは食べた」
 あっそ、というそっけなく返事をしたが、それは悲鳴と雄叫びに掻き消されてしまった。どうやら優秀学級が発表されたらしい。視界の端に捉えたクラスメイトたちは歓喜するでもなくうなだれるでもなく、素直に拍手を贈っていた。まだまだ初々しさの抜けない一年生がのそのそとステージから下りていく。仲間に迎えられたところで、やっと表情が緩んだ。
「まだ、五位の発表だからな。あいつら、余裕ぶちかましてやがる」
「うちのクラスが賞とったら、真代がもらうんでしょ」
「幸野だろ」
「実行委員が行ってよ。わたし、いまそんな気分じゃないの」
「確かに、俺は文化祭については学級のすべてを担っている」
「そうだよ」
「だから、俺は幸野に、行けと命じる権利がある」
 真代は、義務もな、と笑った。
「わかったよ、もう。もし選ばれたらね」
 内心、優秀学級に選ばれる自信がなかった。今年はどの学級も奇抜な出し物が多かったため、王道をいったわたしのクラスが見初められるとは考えにくい。学校側も優劣が付けにくかっただろう、上位学級については。
 四位の発表。今度は二年生だった。水泳部かラグビー部か、とにかく肩幅の広い男子生徒がずんずんとステージに上がった。
「なあ、幸野」
 体格のいい男子生徒はがっしりとカップを掴み、賞状をまるめて高々と突き上げた。なんだかプロレスの優勝決定戦みたいだと思い、一人でコロコロと笑った。
「幸野」
 咎められたと感じて、押し黙る。真代がいつになく真剣な表情でこちらを見ていた。視線が痛い。
「なに」
「話があるんだ」
 いま喋ってるじゃん、と突っ込む空気ではなかった。目を反らしたかったけどそうしてはならない気がして、それでも気まずくて真代の口元を見ていた。
「優秀発表が終わったら、電話して」
 立ち上がる真代。指さす先はわたしの胸――と思ったが見てみると首にぶら下げていた携帯電話であると気付く。
 真代もわたしも携帯電話を持っていた。当時の学生としては珍しいほうでうらやましがられたりもしたものだ。故に、その所持者同士は自分は携帯電話を持っているんだという見せつけも兼ねて、フランクに連絡先を交換し合った。真代とわたしも例外ではなかった。
「いい?」
 有無を言わせない口調とはこのことを言うのだろう。真代だって、わたしがノーと言えないことを知りつつ問うているのだろう。なんで、どうして、と問いたい気持ちを抑えて儀礼的に、うん、と頷く。
「三位の発表ぐらいになったら、前の方出て行けよ」
 意味ありげにウインクする真代はいつもの朗らかな真代。そのまま彼は人ごみへ消えていった。
 
 理事長は再び生徒会役員に誘われてテント下に戻った。賞状とカップを適当なクラスメイトに預けて、再び跳ねたり歌ったり踊ったりしはじめた群衆をかき分けて中庭を離れた。右手で携帯電話を操作する。アドレス帳を開いて、真代の文字を探した。電話番号だけが記されたページが、彼との親交の浅さを示している。そういえば割と頻繁に直接話をする仲ではあったけれど、機械を通しての交流はほとんどなかった。彼との連絡先の交換もまた社交辞令、あいさつ回りの一環であるようだった。
 発信音二回ほどで真代へ繋いでくれた。携帯電話を握りしめて電話を待つ真代を想像すると、笑えた。
「真代、だよね。幸野だけど」
「発表、終わった?」
「うん、無事に」
 言いつけどおり、三位が発表されたときの歓声の渦に乗って、クラスメイトの元へと動いた。遅いとかなんでいなかったんだとかあんたが主役だとか言ってくれるみんなは温かかったけど、頭の中は真代の言動の意図を探るので精いっぱいだった。
 わたしの学級は晴れて二位に選ばれた。最優秀賞は勝ち取れなかったが、やはり王道も受けがいいらしい。
「古臭くてがちがち頭のやつらが選んでるんだからな」
 電話越しの笑い声は不思議と響いていた。相手はかなり広い所にいるらしい。
「受賞の喜びを、分かち合ってこなくてよかったの」
 真代も、こちらがあまり騒がしくないことから、わたしが一人でいることを悟ったようだ。
 柔らかい物言いではあるが、どこか切羽詰まるものがある。わたしは呼吸や抑揚から彼の心情を探ろうと努めた。しかし、それをしながら平静を装って返答するというのは至難の業である。特に、相手が真代のような人間である場合は。しかも、わたしは真代の姿を探している。
「もう充分笑ってきたからだいじょうぶ」
 気付けば、当てもなく走りまわるうちに裏門の方まで来てしまっていた。人ごみを避けようと思ったからか。しかし、こちらには飼育小屋と農具庫と温室、それから森しかない。いまさらながら、正門側に出ればよかった、と後悔する。
「どこに、いるの」
 足を止めると急に心拍数が上がってきた。正確にはもっと前からだと思うけど、鼓動が酷く強く感じられた。
「いないよ」
 胸が割れて心臓が飛び出したような錯覚に陥る。
「え」
「どこにも」
「真代?」
 真代の声がか細い。しかしまさか彼も走っていた訳ではあるまい。
「ほんとは話したいこといっぱいあったんだけど、いいや」
 のんびりと話す真代。彼らしくない。なんでもはっきりさせないと気がすまないたちのはずだ。嫌いな言葉は、先送り。そう本人から聞いたのは確か文化祭準備の居残りのときだった。
「幸野、いま裏門の近くにいるだろ」
 ここから見える、と蕩けそうな声が言う。聞いているこっちが眠くなるような甘美さ。
「どこにいるのよ」
 ぐるりとあたりを見渡してみるが、真代どころか人の姿すら目に入らない。
「だから言ってるじゃん。どこにもいないんだよ」
 今度は気だるさの雑じった、それでいて寂しそうな雰囲気を含む声色。
「ふざけないで」
「幸野」
「なによ、もうっ」
「数字、いくつが好き」
 わたしの声など聴こえていないのではないかと思うくらいのマイペース。それ故にか、唐突な質問だったが深く考えることなく唇が動いていた。
「は、ち……」
「じゃあ八年後に俺がいまいるところで会おう」
「だから、どこにいるのって!」
 電話が切れた。ツーツーツーという機械音が空しくこだまする。
「真代っ」
 切れたのは電話だけじゃない。真代の命さえ事切れてしまったような気がしたのだ。飼育小屋、農具庫、温室を覗く。古びたそれらは鍵すらかかっていなかったので中を見るのは容易であった。しかし彼の姿はみとめられない。
 なぜ八年後なのだ、どこにいるのかを言わないのだ。訳が解らない。真代が、解らなかった。
 残されたのは森だけだった。蜂の巣がある森。蛇が出る森。誰かが侵入しては集会で説教をくらわされる森。禁じられた森。
 深く考える間もなく、蓋のない側溝を越えようと飛び込む。踏みつけた小枝がバリと痛々しい音を立てた。
 
 森の中はやけに静かで鬱蒼としていた。空気が厚い。森林浴には持ってこいの場所だが、いまは夜。恐怖以外感じさせてくれない。しかしその恐怖は森からではなく、真代から来ているものだということはなんとなく理解していた。
「真代」
 大地に露出した根や転がった石に行く手を阻まれる。長く伸びたツユクサがむき出しの膝を掠めて切り傷ができた。木の幹を手で触れながら除け、奥へ奥へと進む。振り返る余地もなく、ただ前へ。あんなに狭かった入口から、こんなに広大な森が広がっているなんて知らなかった。否、違う。知っていた。いつか何かの機会に航空写真を見たとき、敷地の半分を深緑に染め尽くす大きなものを、確かに見た。いまのクラスメイト数名と――それから真代と。
 
 それからしばらく探したけれど真代はどこにもいなかった。生足に無数の細く赤い線が刻まれ、シャツからハイソックスまであちらこちらにオナモミがついて、ローファーに泥がついて、踵が擦り切れて、疲れて、ぺたりと座りこんだ。一本の木に身を預けたら、真代の言葉を思い出した。彼は確かに言った、どこにもいない、と。
 だから探すのはやめた。
 微かに聞こえる騒ぎ声と中庭と森の間に立つ校舎から窓を介して漏れる明かりを頼りに、森を出た。
 教室に戻っても、翌朝になっても、真代の失踪が明らかになっても、一週間経っても、それについてわたしはクラスメイトからも教師からも真代の親からも、そう誰からも、大して干渉を受けなかった。何故なら、教室に残された彼の鞄から無期限の停学届が見つかったからである。いまとなっては学園側の対応もクラスメイトの反応もうろ覚えだ。
 だけど、確かにわたしはそのとき、八の持つ意味合いをふと思い出した、一人、枕を濡らして。
 
 忠実に待った。何もできないもどかしさを抱えたまま、一か月はただ忠実に。けれども彼のことばかり想っていられるほど純情なわたしではない。その後、大学院まで続く学生生活は楽しいことばかりではなく、辛いことも悲しいこともあり、彼という人物そのものを意識のうちから外していることのほうが多かったが、晴れの日も雨の日も心のどこかに彼を待つ侘しさだけがあった。否、あったのではない。ぽっかりと空いた穴、何かが足りなかったのだ。
 しかし、わたしはそれが彼に関わるもの、こと、ましてや彼自身であると感じることはなかった。
 
 そして今日を迎えた。その期間の渦中にいるうちは長いとばかり感じていた八年、印象的な場面だけが走馬灯のように脳内を駆け巡るが、彼の姿をみとめるヴィジョンは一切ない。
 
 静まり返る夜の学園、侵入するのはそれほど困難ではなかった。恩師もまだ現役として働いていたし、他の教師の一人がわたしの元クラスメイトでもあったから。彼女もまた真代のことを慕う一人であり、物わかりの良さ故に小難しく入り組んだ事象も話せる相手ではあったが、今回についてはことの詳細までは教えなかった。八年という年月がことの重大さを風化させてくれたので、あの日と同じ午後六時過ぎに森の入口に立つために必要なのは目前に拡がる暗闇への少しの勇気だけだった。
 左手首を返して時計を見る。手のひら側に文字盤がくるように時計をするのは、高校生の頃からのわたしの決まりごとだ。手首をそらせる形で針の指す数字を読み取る姿に一種の憧れを抱く時代があったのだ。同じように、踵の高い靴や裾の広がったスカートを買い集めたこともある、あれは若気の至り。そして、彼に会うという事実がまた、わたしを若返らせた。
 側溝を静かにまたぎ、落ち葉を踏みわけ、あの日のように森の奥へ入る。樹木は育ち、草花の数も増えたようだが、どこか整頓された感じがする。
 絵に描いた時、本当にほったらかしのままだったら酷く乱雑に無造作に、自然界の例外というものが頻繁に起こるような、例えば花の交配だとか樹木の捻じれだとか、そういったものが多くあるはずなのに、いまの森は、見なくても描けるような典型的な植物の配置の上にあり、まるで教科書の模式図のようで、あるはずもない清潔感さえ感じさせるほどだ。
 少し行って、わたしは自分の出で立ちを後悔した。ピンヒールは軟らかな土壌に突き刺さり、バランスを失わせる。また足をけがするのはごめんだと出かけに慌てて買った黒いレギンスは、虫たちの格好の獲物となった。チュールスカートのレースが小枝に絡め取られる。少し考えればわかることだった、お気に入りのジーンズに簡単なシャツ、それにちょっと凝ったデザインのパーカーでもひっかけてくればよかったのだ。スニーカー、せめてローヒールならなんでもいい。
 それほどにまで彼の前で綺麗でいたいという自分が恐ろしい。馬鹿馬鹿しい。
 しかし衣服のあちこちが裂けても履き物が泥だらけになっても、不思議と、不幸であるとは感じなかった。もはや不安要素など何もない。ほとんど呆けた状態の脳でぼんやりと、幹をかき分けるように触れながら前進する。否、どこが前だとか後ろだとかそれさえない。ただ爪先の向くほうへ足を出すのみ。少しずつ鼓動が速くなるのに合わせて、先を急がねばという出処の不確かな衝動が湧きあがる。しかし安定しない足場は相変わらずだ。必然的によろめく回数が増える。
 いつか見たアニメでは悪役に追いかけられて森へ迷い込む姫君は髪や衣服の乱れさえ美しかった。叫ぶ台詞もかわいらしく、倒れこむ姿は同情を誘う。それに比べてわたしはどうだ。最高のロマンスに身を置くことは相違ないとしても、この風貌。あの日のように名を呼びながら走り回った訳でもないのに嗄れてしまった喉はゼエゼエというしわがれた吐息しか出ない。
 ついに足を挫いた。地味に転ぶ。その瞬間ふっと酔いが醒める感覚に陥り我に返る。衝動的に振り返ると一面が深緑と闇黒のアンサンブル、どこから来たかもわからなくなってしまった。所詮は学園、ここで朽ちるようなことはないだろうが、胸の内の淡い期待を食い潰すように拡がるのは、恐怖以外の何物でもない。
 揺れなくなった視界、低くなった視界、いままで見えなかったものが見えてくる。草が道をつくっている、踏み分けられた跡が微かに。
 這うようにして辿る。膝を立てて身体を起こす。こんもりと茂る緑に体当たりをするように身体を通すと、小枝や葉を身にまとって抜け出たところは少し開けた低い草むらだった。その中央に何か転がるもの――人か。再び淡い期待が大きくなる。
 立ち上がったところで靴が片方ないことに気付く。おそらく茂みに絡め取られたのだろう、しかしそれより気になることが目の前にある。もう理性もモンローウォークもあったものか。横たわる身体に、飛び込むように倒れる。
 ささくれ立った手のひらでその形をなぞった。角ばった冷たいものは腕、握りしめられた金属、プラスチックの混ざった布は制服だろう。硬い革は靴だ。そして微かに熱を帯びる柔らかいものはきっと髪。まぶた、鼻、くちびる、固く閉ざされている。泥のこびりついた指からつややかな髪が零れた。
 暗くても黒くてもわかる。真代だ。間違いない。
 涙があふれる。化粧が崩れ、輪郭線しか存在しない世界がぐにゃりと歪む。目に入って痛い。何故か、真代がここで倒れていることが当たり前のように思えた。八年もここであのときと同じ、彼の時間は静止したまま。
 お気に入りのシャツの袖ですべてをぬぐった。綺麗なわたしに戻るために。真代と同じ、高校生のわたしに帰るために。
 そして、わたしは学生服の王子様に口づけた。冷たい。
 離れて、もう一度真代を見つめる。そしてまた、唇を押しつけた。涙が止まらない。感情がわからない。せっかくの再会なのに手放しで喜べない。わたしにしかその意味をくれない、ギブしかありえないキス。
 そのとき、腕時計が電子音で七時を知らせた。遠くなる意識の中で、わたしは真代に身体を重ねた。
 
 ウウと唸り、八年の深い眠りから真代は自らに身を委ねる何かに触れた。
 視界は相変わらずうす暗かったが、重なり合う葉の隙間から覗く空は微かに輝きを放っている。
 満足したように笑み、彼はまだ温かく柔らかいものを撫でながらもう一度眼を閉じた。
 そして心の中で呟く――今度こそ永遠に。
 

 


 

れらた森 (死オチ創作企画)

 

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