もしこれが漫画の一ページだったら、いま、茉莉をとりまく空気にはガタガタとかブルブルとか、激しい振動を表す擬音語が書いてあるのだと思う。ぼんやりとそちらに目をやった俺が感じとれるくらいにこいつは緊張しているようだった。
 コンクールじゃないんだからさ、と佳樹が慰めるように言うのも理彩がおおらかに肩を抱くのも逆効果。そっとしておいてやるのが、優しさだと思うから、俺は何も言わないでただ近くに突っ立っていることに決めた。これは意思のあるノータッチ。
 ほら、公哉もなにか言いなよ、と理彩が俺の胸を小突く。確信犯としか思えない上目づかいに、俺は頷かざるを得なかった。俺が断れないと知っていてやっているのか、こいつ。
「遠田さん、公哉困ってるよー」
 おろおろと佳樹が自分の身体を揺らす。茉莉も期待したような眼するなよ、と掌を返したような扱いがおもしろい。
「ちょっと佳樹、茉莉は純情なんだからそういうわかりにくい愛情表現やめなよ」
 こそこそと耳打ちする理彩は、佳樹の耳が赤く染まって火照っていることなんて気付かないんだろうなあ、とのんびり考える余裕が俺にはあった。この心の広さをちょっとばかり茉莉に分けてやれればいいんだけど、と馬鹿馬鹿しい、自嘲めいたことを考えてみる。
「加西、普通だね」
 想像通りの声にちょっと安心する自分がいる。かよわいっていう単語を擬人化したら誤差十ミリ以内で描けそうな茉莉。それがまたいまにも溶けてしまいそうなものだから、どれだけ弱々しいんだと突っ込む気力が失せるくらい、女の子らしい。
「公哉は何度も舞台乗ってるもんね」
 茶々をいれてくる理彩。くるりとまわってお辞儀して、フルートを吹く真似をした。
 確かに、吹奏楽部に所属している俺は人よりもこういう場数は踏んでいる。メンタル面のコントロールには長けているほうだ。
「お前、緊張してるな」
 あはは、と曖昧に笑った頬がひきつっている。俺がそれを緩めてやることはできるだろうか。
「ちゃんと練習してきたんだから、だいじょうぶだろ」
 たかだか文化祭だ。佳樹はああ言ったけど、合唱をするのが俺たちだけでない以上必ず優劣はつけられる。しかし、それは合唱に対してだ。伴奏の茉莉にはほとんど関係ない。そんなこと言ったって、こいつは真に受けてくれないと思うけど。
「でも完璧に弾けたことないし」
「多少間違えてもなんとかなるだろ」
 されど文化祭。はっきり言って文化的な舞台に乗るのが初めてなやつも少なくない。だからこそ、伴奏者や指揮者の類は堂々としているべきだし、周りを気遣ってモチベーションを上げていくことを考えたっていいはずだ。それなのにこいつといったら……。
「ずれちゃうかもしれないし」
「音を発する場所が遠いんだから多少のタイムラグだけ覚悟してればいい」
 確かに多少のミスタッチはあったようだ。気付いたのは俺くらいだろう。本番で同じミスをしたとしても、楽譜を見ながら曲を聴いている訳ではないのだから音楽教師にもわからないだろうし、ましてや聴衆が気付くほどのあからさまな不協和音ではない。しかし、裏を返せば多少のミスが、ある意味で孤独な茉莉を苦しめることになる。譜面どおりでないとはそういうことだ、とつくづく思う。
「あー、やだ、不安」
 マイナスな言葉を繰り返す茉莉。俺はどう励ますべきなんだろうか。
 ふと、逆に、と考える。こいつはどんな言葉が欲しいんだろう。だいじょうぶ、か? お前ならできる、か? それとも……。
「もー無理っ」
 楽譜の端がくしゃくしゃに潰れるくらいに強く抱いて、茉莉はうずくまった。理彩がそれを追うように身体をすとんと下ろし、茉莉の頭を撫でる。佳樹も膝を抱えた。立ち尽くしたままの俺が、周りの目には酷く冷淡に映っている気がした。
「貸して」
 え、と訊き返すように茉莉が顔を上げ、ついでに周囲の視線も一気にこっちへ向けられた気がしたが、極力気にしないようにする。主語も目的語もないつっけんどんな言葉からでも俺の意図を理解してくれたのか、理彩が茉莉の手から楽譜を抜き取り、手渡してくれた。黒い画用紙をぱたりと手中に広げる。
 楽譜には、鉛筆での書き込みが至るところにしてあった。強弱記号ひとつに対するコメントにも持ち主の細やかな表現力が光っている。例えばクレッシェンド。一概に、だんだん大きく、と言っても、階段を上るようにボリュームを変える場合、波が押し寄せるように変える場合、他にもいろいろあるだろう。きっとこの答えは無限だ。
 いいこと書いてあるじゃんかよ、と素直に思ったが、本人はそのことをわかっていないだろうな、とも思った。記号に対しては書き込みがあっても、それが身体に染みついていないのか、それとも一体化し過ぎて見えなくなったのか。
 俺が気付かせてやるべきか。
「メゾフォルテの意味」
「やや強く?」
 だから、もっと読み込めって。ばか。
「気持ちよく」
「……気持ちよく」
 壊れてしまいそうなくらい細い声が俺のぎざぎざしたところをなぞるように復唱する。
「気楽にやれよ」
 顔には出さなかったけど、がんばれ、と念じてから楽譜を返した。
「うん」
 使いこみ過ぎて端がぼろぼろになった楽譜を抱いて、茉莉は、ありがと、と微笑んだ。とろんとした声色、まろやかな笑顔、たどたどしささえ感じさせるような滑舌の悪さが、甘美な響きを助長させる。それにつられてか、理彩や佳樹はもちろん、周りのクラスメートの頬も心なしか緩んだようだ。当の本人はすっかり和んだ表情である。
 結果的に、周りを緊張から解くという伴奏者の使命を、彼女は果たした。

 

 

めをうたうメゾフォルテ (title by 春原憧子様)(ちいさな一周年企画)

あとがき    back

 

 


 

 


 

inserted by FC2 system