英語は、学級を二つに分けて授業が進められる。僕の隣、窓際の彼女は遠田理彩と記名されたノートを机の上に出して広げ、ペンを左手にくるりくるりと弄びながら、配布されたプリントとにらめっこを始めた。
 非常勤の浜岡先生の惰性的な、はじめ、を合図に、僕は腕時計をちらりと見てから自分のプリントに向き直る。
 集中して解きたい気持ちはあるのにときどき首ががくりと折れて、視界がぶれる。ああ、眠いのだ、と脳のどこかが認識しても、寝てはならないと知っていても、起きるためのホルモンは放出されてはくれないらしい。自分の身体なのにろくにコントロールもできないなんてほんとうに馬鹿げている。
 しかし、昼下がりの英語ほど眠いものはない。音吐朗々と読み上げられる英文は子守唄に聞こえるし、黒板に並べられるアルファベットは夜空に浮かぶ星のようだ。すべてが僕を眠りの国へ誘う。ガラガラというちょっとした非日常を耳にして僕は顔をあげ、浜岡先生がプリントを抱きかかえるようにして背中を丸めて教室から出ていくのをぼんやりと視界に入れていた。
 ふと、遠田さんが肩をほぐすように回した。その瞳に眠気が見える。珍しいな、とふと思ったが、そうしているのは彼女だけではない。みんな大なり小なり睡魔と格闘しているようだ。僕の前に席を有する公哉は完全に机に突っ伏している。たとえ無記名でも白紙でもプリントのことはなんでもかまわないから、せめて彼のプライドのために、プリントによだれが垂れないといいのだが。
 歪む視界の中、なんとかすべての回答欄を埋めた僕は、本能のままに伸びをした。今まで縮んでいた身体のあちこちに秋の冷風が吹きこんで、頭の中がすっきりした。もうプリントの字がだぶって見えることもない。どうやら僕は目が醒めたらしい。
 腕時計をもう一度確認して、所要時間をプリントの端にさっと書きとめた。
 手持無沙汰になってしまった僕は、無意識に左隣を見ていて、そして机に腕を乗せて、その上に顔を乗せて、目を閉じて、口を半開きにして、すやすやと眠っている遠田さんの姿をみとめた。
「お……ださん?」
 ひそひそと呼びかけてみたけれど、彼女はなんの反応も見せてくれなかった。呼吸の音だけがやけに響く。
「起きたほうがいいよ、な」
 肩をつかんで揺すってやりたいけど、普段の彼女を見ている僕は、それが怖くてできなかった。凛々しくて頼もしくて誇り高い遠田さんのことだから、たとえそれが僕だったとしても居眠りが見つかったことに必ずご立腹になるだろう。そういうひとだ。間違いを認めることを恐れている、変なところで。
 かなり妥協して、二の腕のあたりをちょんちょんと突いてみる。遠田さん、と繰り返したけれど彼女は目を覚まさない。
 ね、佳樹、と右隣から声がして慌てて振り向くと、茉莉が目を輝かせて僕の奥を見ていた。
「理彩、寝てるの?」
「らしい」
 珍しいねー、と同意を求める声がなんとなく嬉しそうだ。茉莉はふわりと笑ってその笑顔に負けないくらいに柔らかく、かあわいい、と言葉を発した。
 遠田さんは相変わらず肩を上下させながら微かな寝息をたてている。
「起こす?」
 茉莉を振り返ると、彼女は既にプリントに英文を書き連ねていて、そのままでいいんじゃない、とそっけなく返された。
「あんまり見てるとあやしいよー」
 さっきの笑顔が天使だとしたら、今度は悪魔。茉莉は妖艶とも比喩できる微笑みと人差し指を僕に向けてきた。ピアノで鍛えられた細く引き締まった指が、僕の心臓を突くようにぴくりと動く。身体に電流が走るようなぴりぴりとした感触を覚えた。
「んなんじゃないし」
 吐き捨てるように言うと、茉莉は、よしよし、と人差し指を引っ込めてまた問題を解きにかかった。
 あまり堂々と遠田さんを見ている訳にもいかなくなったので、なんとなく周りを見渡してみる。浜岡先生はまだ帰って来ていないのでほぼ無法地帯となった教室だけれど、騒ぎだす者も立ち上がる者もなく、空気も時間もただゆっくりと流れていた。
「ほんとにめずらしいよ」
 呟いてみると、実感がわいてくる。遠田さんが、寝ている。かわいいな、と思ったけどそれは口にしないでいようと、思う。
 浜岡先生が帰ってきてそのあひるのような声を響かせればきっとこのまどろみも切り裂かれてしまうと思うから、とりあえず今だけは、彼女を夢の世界に居させてあげたい。
 僕は、いつもありがとうございます、と労りの気持ちをこめて、遠田さんのノートを彼女の寝顔の前に立ててやった。

 

り触れた異質 (title by 沖本様)(ちいさな一周年企画)

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