寒い寒い、と連呼する男子をかきわけ教室に入ってきたのは、加西。彼は無言のまま、わたしの横を通り過ぎた。

 この一年弱、せめて朝と帰りにあいさつできるくらいの仲になりたかったけれど、いまだにそれはかなわない。彼が通るのは一瞬で、過ぎてしまえばもう、わざわざわたしが彼の席までいって一言言わない限りは、言葉を交わさずに一日を終えてしまう。
 リュックサックを机上に下ろし、亀みたいに首を縮こまらせる。ここからは左半分しか見えない薄い唇から小さく、さみ、と言葉が零れた。
「公哉」
 おはよ、という声が、シャープペンシルの芯のエイチビーくらいの強度で空気を刺した。ついでにわたしの心までがチクリという。
 聞き慣れた理彩の声は自然体で、わたしが朝一番に聞いたものとなんら変わらないものだった。
 名前を呼ばれた加西が肩をびくつかせ、慌てて左後方、つまりこちらを振り返ると、彼の斜め後ろに席を置いている理彩が小首を傾げた。加西の視線は理彩のところで留まってしまってこちらへは一筋も漏れてこない。理彩のことは好きだし、いつも頼りにさせてもらってるのに、なんだか憎く思えてくるくらいに胸がきゅんとなる。食べ物を詰まらせたときに痛くなるところが、その何百倍もの痛さでつんとする。

 理彩みたいに、ふたりの間に誰も挟まない席だったら言えたのだろうか。その問いかけには、決まってるよ、という答えもあるけれど、心の中で、誰かの疑う声がする。現に、彼の席はわたしの三つ前、四十人近くの生徒が在籍する教室でこんなに近くにいるほうが奇跡なのかもしれないし。
 学級委員長である理彩は、来週行われる謝恩会の準備で忙しくしていて、いまも相棒である佳樹と当日の動きについて確認している。いまのは、そんな最中での、理彩からすれば席が近いからという理由で正当化される普遍的なあいさつだった。
 目を見開いた加西の態度に、理彩はいま忙しいんだけどとばかりに愛想悪く、え、と訊き返した。
「あたしの顔、なんかついてる?」
 時代遅れともとれる天然発言を加西に浴びせ、理彩は佳樹との仕事に戻った。
 体育祭の司会者が持つようなバインダーを右手に、足を揃えてすらりと直線的に立ったまま佳樹に真剣に意見する理彩は、うちのお母さんよりも立派なキャリアウーマンみたいだった。
 加西は、なんにも、と断ってから、はよ、と付け加えるように言った。いつもクールにしてるくせに、たった四文字のあいさつを恥ずかしがるのがかわいい。もう向こうを向いてしまった加西だけど、わたしは彼の耳が少し赤くなっているのを見逃さなかった。
 鏡はないけど自分でもわかるくらいに気持ち悪い微笑みを浮かべて、わたしは手元の楽譜に視線を戻した。

「ね、茉莉」
 不意に理彩がわたしを振り返る。
「伴奏は茉莉に頼んでいいんだよね」
「あ、うん」
 ちゃんと練習してるよ、という意味でひらひらと楽譜を振ると、理彩は満足げにうんうんとうなずいた。そして、
「ほら、ね? 茉莉に任せといて正解でしょ」
と、得意げに言った。呼び掛けられた佳樹は、はいはい、と面倒くさそうに手を叩いた。
「ありがと」
 さりげなく小さなお礼を言い残し、理彩は佳樹との話し合いに戻った。奥の加西が何かのプリントを見ながら息を吐く。
 その後も理彩が楽しそうな声をあげる度に、加西の肩がいちいち怒った。理彩はつくづく罪な女だと思う。
 
 授業中も、加西の肩や背中にはアンテナがついてるみたいに理彩の喜怒哀楽を感じ取ってはそれが肩に表れていた。
 わたしは目で追っていられるからいいけど、加西はそういうわけにもいかないんだと思うと、ちょっぴり同情したくなる。
 帰りのホームルームが終わると、理彩が真っ先にわたしのところへ来た。
「ごめん、今日は一緒に帰れなさそう」
 委員長会があるの、と手を合わせて謝る理彩の向こうに、加西がさっさと荷物をまとめてリュックサックを背負っているのが見えた。すたすたとわたしたち、たぶん正確には理彩の横を通り過ぎようとする。
 わたしは、なるべく普段どおりのトーンで、そんなの全然いいよ、と言った。
「がんばってね」
 うん、ありがと、と理彩は子供みたいに笑った。一瞬、加西がこっちを見た気がした。
 理彩の、しっかりしてるのにときどきみせるこういう表情が愛される秘訣なのかもしれないな、とふと思った。
「公哉も、また明日!」
 加西がはっと足を止める。
 理彩はわたしに怪しくウインクをして、資料を片手にばたばたと教室を出ていった。
 帰るタイミングを失った加西と、教科書をまとめる手を止めたわたしの間に、時計が歪んだような不思議な時間が流れる。
「寒いな」
 加西の唇が微かに動いた。
「寒いね」
 わたしも細い声で返す。震えてはいなかっただろうか。
 じゃまた、と言って、加西はマフラーに顎をうずめながら再び歩を進めた。同時に、わたしに向かって挙げられた右手がだらんと落ちて、彼のポケットに収まった。
 廊下に消える加西の肩がぶるりと震える。
 変えられない事実を口に出して認め合うことで温もりをわけあう季節は、まだ続くらしい――それから、この片想いも。

 

 

いのは一年、それとも (title by 恋するぱんだ。様)(ちいさな一周年企画)

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