始業前、羽富先生に呼ばれたので、がやがやと理科室に入ってくる子たちをかき分けて廊下へ、それから中庭に出た。
 卒業式も終わって、大好きな先輩もちょっと苦手だった先輩も北風も残雪もみんな一緒にどこかへ行って、三月の温かな日差しが穏やかに地に降り注いでいる。細々と活動を続けている園芸部が植えたチューリップが小ぶりな蕾を並べて、微風に揺れる。鳥のさえずりが耳に新しくて何だかくすぐったい。地球規模で、あたしを優しい気分にさせてくれる温もりが肌に優しく差した。
 あたしの前を歩くのは、同じように先生から仕事を頼まれた公哉だ。まぶたをこすりながら力なく、だらだらと足を前へ出す。最近の公哉は覇気がない。クラスの女の子たちはクールだとか堅実だとかきゃあきゃあ騒ぎ立てちゃうから、あたしくらいは元気がない彼のことを多少は気にかけてやらなきゃ、と幼馴染の好で思っている。
 少し速度を緩めて隣に並ぶと、公哉は、なに、と口をぱくぱくさせながら、迷惑そうに左の眉をかたりと落とした。
「迷惑?」
「ぜんぜん」
「よかった」
 ほっと息をつく。
「なんで」
「じゃまって言われると思った」
「言わねえよ」
 そんなこと、と付け加えて、公哉は両手を上へぐいっと伸ばした。わたしより頭一個分くらい背が高い公哉の手は、高窓の鍵にゆうに届いてしまいそうだった。もしあたしが公哉くらい大きかったら、この平ぺったい視界が少しは変わるんだろうか。それとも、高さが変わるだけで、厚みが増すことはないんだろうか。
 自分から話しかけたことには変わりないけれど、少し話題に困って内心おろおろしていると斜め上から、今日ごきげんだな、と声が落ちてきた。
「どうして?」
「鼻歌」
「あ、ごめん」
 慌てて口を抑えると、公哉は肩を怒らせ首をぐるりと回しながら、別に、と言った。
 あたしは何もないときに鼻を鳴らす癖がある。フともンともつかない不思議なハミングを、これまた不思議なリズムで鳴らすらしい。自覚したことはないけど、あまりにもしつこく周りに言われるものだから、とりあえず事実として受け入れているけど……。
 で、と公哉はわたしをちらりと見る。
「羽富先生、どこに来いって?」
「えっとね、たぶん中庭」
「そっか」
 何するんだろうな、と呟いたっきり公哉は黙ったままぶっきらぼうな歩みを続けた。あたしもつられて早いペースで進む。
 ふと、成長したんだな、と思った。久しぶりに聞いた声は低い響きを含んでいて、四肢の描く曲線はたくましく見えるし、ちょっと幼さの残る横顔を見るためには、いやでも見上げるという作業をせねばならない。凄くのんびりと歩いているくせに、歩幅が広いから追いつけない。必然的に、小走りになる。
 公哉も、いつまでも男の子じゃないんだ。あたしの知らない彼が、ここにいる。
 
「じゃあ、花摘んで持ってきて」
 首にかけたタオルで汗をクイと拭き、羽富先生は一足先に理科室へ戻っていった。左右の足にいちいち体重をかけながら身体を揺らして歩く後ろ姿は冬眠明けのクマみたいだ。
「八輪でいいんだよな」
 んん、と鼻を鳴らして答える。羽富先生の言った用事とは、授業で使う花を準備することだったらしい。さっさと理科室に戻ろうと、手もとの花を四輪ほど手折った。被子植物、双子葉類、離弁花。名前はわからないけど、よく見る花だ。わたしは本能的に、かたちのいいものを手にしていた。花びらがきちんとついていて花粉が零れていなくて茎の瑞々しいそれは、わたしの掌中で既に萎れ始めていた。
 花壇に背を向けて立ち上がった。長いスカートを軽く払う。
「行こ」
 返事がなかったのを不思議に思って、首だけを公哉に向けた。彼は、生きたままの花とにらめっこをしていた。花壇の縁にしゃがみこんで茎に手を添えては離し、茎を摘んでは力を緩めている。
「どしたの?」
「え、ああ……」
 何でもない、と漏らし、付近の花を一気に手折って痛々しいくらいにぎゅうと握りしめた。でも表情はどこか切なそうで、物憂げな眼をしている。
「公哉」
 名前を呼ぶと、彼は立ち上がり、何事もなかったかのようにすたすたと理科室へ向かってまた歩き出した。
 
「ね、待って」
 内履きをパタパタいわせながら公哉の背中を追いかけた。すると、彼のほうが歩く速度を緩めてくれた。また、隣に並ぶ。いつもより柔らかい顔つきをしている、ように見えるけれど、少し寂しそうにも見えるのはどうしてなんだろう。どうしようもないことを受け入れるみたいな無常さが、なんとなく感じ取られた。
「いまから解体するんだよな」
「うん」
 なにを言ってるんだろう、と思ったけれど、あえて訊かないで頷く。
「なんか、やだな」
 そう呟いてから、公哉はさっさと歩きだした。またしても突然の行動に足がもつれたけれど、なんとかそのスピードについていく。彼の背中が小さく見えて、ひとりにさせたらいけないような気がしたのだ。
「がんばれ」
 触れてはいけないんじゃないか、と一瞬不安要素がよぎったけれど、思い切って少し高い肩をたたく。公哉はまた眉毛と目をくっつけるようにして曖昧に笑った。
「な、理彩」
「なに」
 あたしにできる最大の温かさで返事する。あたしの瞳の奥を覗き込むような公哉の瞳は澄んでいて、潤っていて、綺麗だった。
「なんでもない」
 公哉は高校生とは思えない真っ白な笑顔を見せた。眩しい、春の光のように。
 あたしは目を開けていられなかったから、閉じた。それだけなのに、公哉は、笑ってるし、と吹いた。
 ほんとに、失礼なやつ。
 

 

 

まりはそれが美しかった訳だけど (title by ひなせ様)(ちいさな一周年企画)

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