もう少しで突破口が見えそうだとか、ましてや答えが出せるだなんて期待させてくれないテキストから目をそらしたあたしが奇声と共にシャープペンシルを投げ出しても、拡ちゃんは腕を組んだまま右の眉をぴくりと動かしただけで動揺した素振りは見せなかった。
 その神経の太さに驚く前に、こんな体勢でも拡ちゃんの顔を盗み見ちゃうあたしの図太さにため息が出る。
「俺は真知がなんで理解してくれないのかがわからないんだけど?」
「そ、それは……」
 拡ちゃんの頭が良すぎるからだよ、なんて努力の嫌いなあたしが言ったら怒るに決まっているからあえて言葉を切った。
「別に数学の難問やってるわけじゃないんだからさ」
 英語なんか覚えてるか覚えてないかの違いしかないんだって、ときっぱり。
 でも、俺が教える必要もないはずだとかなんとか言いつつも拡ちゃんは変わらずあたしの勉強を見てくれる。
 無愛想で、教室にいるときはひとりで本を読んでることも多いけど、なにかあると、何故か人に囲まれる。惹き付けられるなにかがあるのだとすれば、きっと根本的に優しいんだ、拡ちゃんは。主成分、優しさ、みたいな。どんなに小さくても冗談混じりでも約束は守ってくれるし、ねえ、と呼び掛ければ必ず返事をしてくれる。いまだって、そう。
「拡ちゃんは自分の勉強しなくていいの?」
「四六時中必死で勉強しないと受かれないような高校、狙ったりしてないからな」
 誰かさんみたいに、と付け加えて笑う。
 悪かったですね、と頬を膨らませると、拡ちゃんはさらに小刻みに肩を震わせながら取り落としそうなくらいに頬を緩めた。
 拡ちゃんが志望しているのは市外ではあるけれどこのあたりでも有名で、評定の目盛りが振り切っている子たちの集うトップレベルの進学校だ。そしてあたしの志望校でもある。
 本人から聞いた話によると、三年生になってから幾度となく持たれた三者懇談会で、担任の先生にも親にも拡ちゃん自身の成績の書かれた資料にも何からも咎められることなく志望校を決めたらしい。
 あたしはといえば、上がったり下がったりしながらも長い目で見れば緩やかに上昇してくれている成績表を親や先生に拡大解釈させてやっと願書提出に至ったというわけだから、一貫して志望校を落とさない拡ちゃんの凄さは身を持って知っている。
 同い年で、幼なじみで、いままでずっと一緒にいて。別に追いかけたいとかどういう関係になりたいとかはないけど、離ればなれになりたくない気持ちだけは強く持ってる。
「俺の心配してくれるなら、真知も頑張りな」
 試験日まで一ヶ月を切ったいま、まだ拡ちゃんに甘えているあたしの弱さもまた、よく理解しているつもりだった。いくら隣人とはいえ甘えすぎにも程がある。でも、こんな小さなアパートだと、仲間意識がどうしても強まってしまう。システムキッチンがステータスの高層マンションなんかとは違うあったかさがある気がするのだ。
 これで拡ちゃんがアパートのベランダを伝ってうちまで来ていたらもっとおもしろいかな、と思うけれど。
「ま、そんなのはどうでもいいから」
 椅子に座り直し、拡ちゃんは組んだままの腕を机に乗せてそれに胸を押し付けるように身を乗り出した。どこ、と語尾を上げる。あたしが無言で指した英文を切れ長の目が鋭く追う。形のよい薄い唇が小さく動き、流動的な異国語がほんの少し遅れながらあたしに響いてきた。
「進行形にならない動詞があるんだけどさ」
「うん」
 拡ちゃんの腕組みがほどかれて空いた手が何かを探して宙を動く。あたしが握っていたペンを差し出すと、骨っぽい指がそれを受け取って今度は紙の余白を探す。頼もしいのに変なところで可愛い先生のために、あたしは開いていたテキストを左にずらし、裏返した学級便りを机上に滑らせ拡ちゃんの前で止める。
 標的を得た矢は急降下して的に刺さったかと思うと、今度は横にさらさらと流れた。拡ちゃんの筆記体が踊る。
「和訳して」
 読みにくいし、という声はまた飲み込んでおくことにして、あたしは代わりに教科書どおりの形式的な日本語を口にした。いまどきこんな堅くてまどろっこしい日本語を話す人なんているんだろうか。もしかしたら日本語を勉強中の外国人のほうがあたしたちよりよっぽど礼儀正しいかもしれない。
「じゃあその日本語、進行形にして」
 その注文に鳴りかけた喉の振動が一時停止する。ややあって一抹の違和感を伴いながらも再開。
「彼女は黒い髪をしています」
 さっきと変わんないじゃん、と拡ちゃんの唇が脱力したように下向きに動く。
「いい?」
と、指を立てた拡ちゃんはもう自分の世界に入っている。あたしはいつもその世界を、中央で華麗に舞う拡ちゃんを、遠く離れた入り口から見つめることしかできない。白線が越えられない。
「現在進行形ってことはその動きがいま在るということだろ。だから動作を示す動詞じゃなきゃだめなんだ。逆に言えば、動作ではなく心の動きや気持ちを表す動詞が進行形にならない」
 例えば、とさらに舞を続けるシャープペンシル。その軌跡を読み取って、平ぺったい英語でウォント、ライク、カム、ハブと発音した。ひとつ頷いて、拡ちゃんはカムを指しながら続けた。
「今回の場合は来るという意味ではなく、由来するという意味で使われている。だから進行形にしちゃいけない」
 まあ進行形になるならないの境界がはっきりしない単語も多いけど、と呟いて、目つきがふっと柔らかくなった。やっとあたしの存在を視界に入れてくれたらしい。
「わかった?」
 覗き込むように首を傾げた拡ちゃんが遠い。
 ありがと、と微笑んであたしはテキストを元の位置に戻す。同時に拡ちゃんの身体が引いて、急に重心の変わった椅子がギッと音を立てながら後退りした。
「そのページ終わったら動詞の分類」
 俺は本でも読もうかな、と仰け反った身体から発されるのんびりとした声はわたしの背後で空虚に響いた。

「見てくれる?」
 いつのまにかソファにかけて文庫本の餌食になっていた拡ちゃんの意識をこちらに引っ張ってきて、でも実際にはあたしのほうが立ち上がって、移動してきて、プリントを見せた。細い筆記体の下に、統一感のないでぶっとした字が申し訳なさそうに並んでいる。
 そんなこともわからないのかと思われるのが怖くて何度も見直したから多少は自信を持ちたいけれど、平行移動で文字を追う拡ちゃんの温度のない視線にちっぽけなプライドを冒されている気がした。
「一個違う」
「え、どれ?」
 出し抜けに飛び出した言葉に拍子抜け。わたしは間抜けな声で訊き糺す。
「真知さ、ライクとラブの違いってわかる?」
「なに? いきなり」
「答えなさい」
 いつになく真剣な表情に圧倒されて、わたしは首を横に振った。
「じゃあどっちのほうが好きっていう感情の意味合い、強いと思う?」
 拡ちゃんがわたしに見えるようにプリントを持ち直したことから、唐突に生まれた問題ではないことだけをとりあえず理解した。
「ラブ?」
「そう。それで……」
 そこまで言いかけて拡ちゃんは口をつぐんだ。絶対にぶれたり揺らいだりなんてしない目が少しだけ左右に泳ぐ。
「それで、これは進行形にしていい」
 とってつけたように言い切った拡ちゃんに仕草でペンを要求され、あたしは身を捻って机の上に散乱したそれらのうちから手頃な赤を掴んで渡した。
 拡ちゃんは腿を下敷き代わりにラブを丸で囲んで進行形になる動詞の括りに矢印の先を放り込んだ。
「あとはいいよ」
 そう言って再び本に視線を戻した拡ちゃんの目はまだ落ち着いていない。
 あたしが、ねえ、と声を漏らすと、拡ちゃんの身体が心臓からの波を全身に伝えるようにびくりと動いた。
「なに言いかけたの?」
 拡ちゃんの瞳を捕まえるように見据えた。あたしの視線の網を潜り抜けるように拡ちゃんは目を伏せる。
「教えてよ。気になるじゃん」
「……違い、説明しようと思った」
 拡ちゃんの胸に押し戻されたことを理解するにはそれだけで充分だった。
「拡ちゃんはわかるの?」
 単純に、興味がわいた。拡ちゃんの動揺したとことなんて、ほとんど見たことがない。
「英単語としてなら、な」
 拡ちゃんが肩をすくめる。いつもほど嫌みな印象は受けなかったけれど慢じた感じも消えない。
 結局勉強か、と少し落ち込んだ自分に、こんな時期に色恋沙汰を求めていたのかと気付かされてもっとばかばかしくなった。
「なんか難しそうだね」
「簡単だよ」
 そう言って拡ちゃんは立ち上がり、机のほうへ戻っていった。
「なんで?」
 振り返りながら問う。
「なんでも」
 どっちも気持ちを表す動詞じゃん、と今度、言葉を飲み込んだのはあたしのほうだった。入れ替わりに心臓が飛び出そうとする。
 目の前で交差しているのは拡ちゃんの腕。肩に乗る体温が少し重かった。それから風の通り道を奪われた背中も。
「これはラブ」
 動けない。声も出せない。驚きだけが身体中を駆け巡るけど、それは動作を起こすことに加勢してくれないらしい。
 いますぐにでも振り向いて拡ちゃんの表情を窺いたいけど、そうしたら同時にあたしの真っ赤に染まっているであろう顔もさらさなくちゃいけない。
「どきどきしてる?」
 左耳がくすぐったい。伝わらないように必死で隠したつもりだったのに、言葉にされて鼓動はさらに速くなる。
 イエスともノーともとられないくらいにちょこっと首を下に傾けたら、回された腕がきゅうと締まった。
「その鼓動はライク」
 やっと拡ちゃんの言いたいことがわかった。愛でるという行為の意味もあってはじめてライクがラブになるのだ、と。
 ただでさえ上がっていた息が気道を狭められてさらに切々になる前に、拡ちゃんの腕にあたしの指を絡ませた。
「これでラブになる?」
 吐息とともに、よくできました、という呟きがあたしの首筋にかかって、拡ちゃんが離れた。
「もう一個教えてやろうか」
 いつだって拡ちゃんはあたしの返事を待ってくれる。そんな優しさに甘えて、いまにも崩壊しそうな涙腺の存在は無視することにしよう。
「なに?」
 あたしの肩を両手で包むように押さえる拡ちゃん。
「アイラブ、ユー」
 交錯する視線。そらしたいけど避けられなくて他に為す術がなかったから目を閉じる。熱がふっと近くなって、くっついて、それから、これがキス、というささやきが優しく聞こえた。
「……知ってる、とか言わせないからな」

 

 

名付けられた

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