ああ、そうだ、と初老の教授が教材をまとめながら言う。
「隣の公園でやってる花見に経済学部のやつらが店出してるから、参加してきてやれよ」
 ジヒでな、と口を半月型ににかっと開いた教授は、自費と慈悲をかけたのが相当気に入ったとみえる。口調こそ何気なさを装ったふうに見えるけれど、やけに詳しい情報が盛り込まれ過ぎているじゃないか、確か一昨日の講義でも同じ言葉で締めくくったような……。魂胆が見え見えじゃないか。
 書類が重なりあう音、筆箱が鞄に投げ込まれる音、それから話し声。騒がしくなりはじめた講堂をぐるりと見回す。逃げるようにさっさと出ていく見知った人影を見送った。やつはこの頃女の子を捕まえては学外に連れ出しているようなので、どうも信用が置けない。変なやつだとは思っていたが、まさか女の子に、しかもそろいもそろって美人ばっかりなんだな、これが。
 彼、そういうのに興味あったっけ、それとも目覚めちゃったのかな、と首を傾けると、ポキリと嫌な音が鳴った。一時間半、ほとんど身動きせずに話を聞くのはやはり辛い。普段わたしは部屋に引きこもっていても、無意識のうちに貧乏揺すりかなにかで身体をほぐしていたのか。人間の身体にはまだまだ謎が多い、と使い古された言葉で思考回路のチューブをぎゅうと絞め、わたしも教科書を閉じた。次の講義まではまだ時間がある。資料室に寄ろう。早春と名のつく時期だからこそ調べたいことがある。昼食はそのあと。この研究に関してはいまを逃したら一年も待たねばならない。いくら研究のためだからといって誰かさんのように日付変更線を何度も越えるのだけは勘弁してほしい。東奔西走、足労、無駄、飛行機、これらはわたしの中ではほぼ同じ括りに属す言葉だといってもいい。
 よって、花見も不参加! と、さっきとは別のチューブも絞めておく。
 荷物をまとめた者から、昼食確保という明確な目的を持って立ち上がる。流れに合わせて講堂をあとにし、テラスを歩いた。門へ続く経路に皆が吸い込まれていく中をすり抜けるとき、わたしは正午の興奮に不似合いな、間の抜けた欠伸を背後に聞いた。振り返る余裕も意志もなくそのまま隣の公園へと急ぐ人混みを突っ切り、少し行ってから立ち止まる。
 突き当たりの窓ガラスに映るのは、口の端をきゅっと引いたわたしと、右手は左肩へ、左手は左腰へ、雑誌にそのまま載せても様になりそうな立ち姿の彼。彼のほうは口角が左右対称に持ち上がっているのが腹立たしいところだ。
「いつから?」
 わざと出してやったわたしのいかにも不機嫌、なんて声など気にも留めないようすで彼の唇が、い、ま、とぱくぱく動いた。
「当て付けみたいにさっさと出てっちゃったのはどこの誰?」
「その口振りだとたぶん俺だね」
「わたし資料室に用事があるの」
「今日は、閉まってた」
 うそ、と突くと、ほんと、と跳ね返された。顔は薄情な感じで笑っていて信用ないけど、確かにいままでにもこういった詳細不明の閉鎖があったことにはあったのでこれ以上疑うのは無駄だと判断する。何より、彼がそんな小さな安っぽい嘘をつくことはまずないだろう。彼はわたしの神経をなぶりはするけど、研究を妨げることはしない。
 俯いてため息をつき、もう一度顔を上げたわたしの目に映ったのはただの窓ガラスではなかった。遠近法を鮮明に映し出した絵。切り取られた日常。窓そのものとしての存在感が薄れていく。後ろを行き交う学生の喧騒がどこか遠い場所のものであるように感じた。テラスが場所を繋いでくれていない。完全に切り離された、ここ。
 言いようのない恐怖がそこにあり、それ以上見ていられなくて窓に背を向けると、彼の顔が斜め上にあった。わたしの背は割と高いほうだし、おまけにいまは踵の高い窮屈なパンプスに足を押し込めている。それなのに顎を上げねば目を見られないとは。
「あんたの栄養、もっと横に使えばよかったのにね」
 飄々とした雰囲気もきっとこのばかに細い四肢のせいだろう。
「用事、なくなったんだろ」
 わたしの言葉など聞いていなかったかのように彼は腕を組む。
 こくりと頷くと、彼が肩に下げているデイパックから紙袋が出てきた。持ち手がなく、口のところをくしゃくしゃとまるめられたそれは、それなりの質量に、適度な温度と心地よい香りを伴っているように見える。
「ミックスサンドとブラック」
 仕草で受け取れと示されて両手を出したけれど、紙袋はそこに置かれることなく宙へ舞い戻って彼のデイパックに収まる。
「なによ」
「取るものだけ取って逃げられても困るから」
 にやりと笑いながら、彼は膝を折った。悔しいくらいに端正な顔がすとんと落ちる。
「少しばかりお相手願えますか」
 先程とは打って代わって真面目な顔つき。惑わされないように差し伸べられた手を平手で払ってやった。 乾いた音。それに人肌の感触がある。よかった、わたしはこっちの世界にいるのだ。彼と同じ、この世界に。
「何考えてんの」
「お誘い」
「何の」
「花見」
 あのねえ、と言い掛けるたところを遮られ、飛び出してきた腕に捕まり、わたしはあっという間に連行されていた。
「行かないつもりだったんだけど」
 ずんずん歩を進める彼の耳は受け入れてくれないみたい。拒否の言葉をぶつけ続けても、たまにはいいじゃん、とのんびりした声が返ってくるだけで、足の動きは止まらない。腕の力も緩まない。
 ため息をつくわたしの中に、ちょっぴり安堵するわたしがいた。彼に存在を認められている。いつもは迷惑だと思っている強引さが、いまはなんだかあたたかい。
 わたしの感じるすべてが彼の選択で変わっていく。この景色も、聞こえてくる音も全部。それに身を任せることに何の違和感も生まれなかった。

 公園はくす玉を割ったような盛り上がりぶりだった。 桜色が埋もれてしまうくらいのごみごみした人の色。
「もう観念したでしょ」
「ここまで連れてきて何よ、いまさら」
「まあまあ」
 丸太をモチーフにしたベンチに腰かける彼が仕草で座れと言う。ぷいと横を向くと腕を引っ張られて強引に座らされた。
「一陽来復の好機、楽しまなきゃ損ですよ」
 レディ、と差しだされた紙袋を今度こそ受け取り、 物品だけは遠慮なくいただくことにする。
「はやいな」
「悪かったわね」
「せめてうまそうに食べろよ」
「それはどうも」
 膝の上で包み紙を開けるシャカシャカという音にまぎれてしまえばいい、と小さく、ごちそうさまです、と呟いた。
 隣の彼がにやり、と笑った気がした。
「やっぱりここが最高のロケーションだな」
「どこが」
 え、と言葉を切って、彼はここ、とわたしを指す。
「なんで」
 わたしが、と続く言葉を飲み込む。彼はわたしなんかに焦点を合わせちゃいない。透かすような見方だ。
「はいはい、うぬぼれないの」
 このアングルなんだよな、と両手の人差し指と親指で四画をつくる。
「風は昨日がいちばんよくて、空は一昨日なら文句なしだったんだけどなあ」
 どこから取り出したのやらデジタルカメラを構える彼。いくら最新式のものだとしても風は写らないから、おそらく散った花びらが宙に舞う感じとか枝のしなる感じとか、もしかしたら少女の髪やスカートのなびく感じのことを言うのだろうな、と特に触れることはしない。
「だったらそのときに撮ればよかったじゃないの」
 彼がこの目をしているときは変に一字一句取り上げないほうが身のためだ。たぶん。
「お前が来ないからだろう」
「なんでそうなるの」
「俺があんなに誘ったのに資料室にこもりやがって」
 彼は幼子のように口をとがらせた。
「どうしても今やらなきゃいけない研究があるのよ」
「どうしても今撮らなきゃいけない景色があんの」
「訳わかんない」
 ぷい、と彼から顔をそらして、遠方で走り回る子どもたちをぼんやり見る。彼らは元気だ。そして無垢だ。抱える悩みや抱いた怒りさえ繊細で美しいほどに。
 わたしにもあんな頃があったのだろうか、とふと思う。この公園には父と来たこともある。だが一緒に声を上げて遊んでくれる存在があった訳ではない。決してわたしが恵まれていないとは思わないけど、彼らが恵まれているのは事実だろう。余計なものを持っていないのだ。常識とか先入観とか。まとめるなら、そう、非現実的なものを現実の中で捉えようとする姿勢。子どもの心を失いたくない、という大人は多いが、わたしにはそんな心、生まれたときから持ち合わせていなかったといっても間違っていない気がする。
「ま、今日が最高ってことに変わりはないからな。とりあえずこれでいこう」
 麗かな昼下がりに似合わない機械音ではっと我に返る。
「タイトルは花、で」
 つまんねえタイトル、と言葉の割には楽しそうな声を上げる。
「なに撮ってんの」
「ん、いろいろ写ったかな」
「わたし写ってないよね」
 さあ、どうでしょう、と口角が吊り上げられる。
「やっぱ被写体は選ばないとな」
 カメラを操作して、メモリーを鑑賞する彼。横目で覗くと、先日彼に連れ出されていた女の子たちが写っていた。
「思い通りになってくれるやつじゃないと」
 はいはい、どうせ都合のいい女ですよ、と胸の内で悪態をついた。
「いつから写真家になったのよ」
「今日」
「昨日までの交遊は何?」
 ああ、と思いだしたように笑う彼をぎろりとにらんでやる。
「昨日まではただの趣味。プロだったらモデルに謝礼渡さなきゃいけないし」
「じゃあ今日はそれなりに何かもらえるってこと」
「ご名答。っていうか、お前もう食ってるし」
 わたしの膝の上でくしゃくしゃに潰れた紙袋がいきなり会話のスポットライトが当てられてびくりと震える。いや、揺れたのはわたしの身体か。
「あんたってほんと、先回りが好きね」
「あ、もうひとつ。知ってると思うけど」
 はぐらかすように指を立てる。今度は何よ、と耳を傾けた。
「俺は被写体にはならない主義」
「そんなの不公平」
 どこが、と食ってかかる彼の後ろにそよぐ風は、なんとなく他とは違う色をしていた。
 

 

 

春を抱いて

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