思いのほか、その言葉は簡単に告げることができた。
 彼は、ふうん、と鼻を鳴らしたっきり何も言わない。橋の欄干に腕を乗せ、いつもの癖で腕時計を触りながら暮れる陽をただぼんやりと眺めている。その横で同じように日中の陽光にさらされて温くなった金属にもたれたら、川の上を走る風がわたしの前髪をするりと後ろへ流した。
 別段名残もなく水平線に消えようとする陽に、何故かいらだつわたし。そのあっさりとしたある意味での潔さは隣で長いブレスの呼吸をする彼にどことなく似ていた。惜しむことも悔むことも知らない、無感動さが癪に障る。
 視界を共有するのさえ腹立たしく、ふと視線を落としたけれどそこにあるのは微かにしかその音を届けてはくれない川のせせらぎともどかしいくらいに怠慢なその流れ。時折遠くに聞こえるけたたましい陳腐なエンジン音のほうがよっぽど日常くさくて、優しかった。
 少なくとも、わたしには。
「なんかさあ、ロマンチックだよね」
 肯定とも否定ともつかないイントネーション、というより、ほとんど息漏れと変わらない声質で、そう、と唇を震わせると、彼は不服そうに、ん、と喉を鳴らした。
 彼の単音がもたらす不快な空気を拭おうと、手を下ろす。それから振り返って、わかんない、と努めて明るく言ってみた。それから、同意を求めるように彼を覗き込んだけれど、返ってきたのは、ふうん、という音。口笛のような気軽さと、唸りのような荘厳さがあった。
 爬虫類的に瞼がぺろりとめくりあげられる彼の視線移動につられて空を見上げると、追われる昼と押し寄せる夜が目に入った。曖昧な色の境を縫うように名前も知らない鳥が一羽、舞っている。しかしそれはまったく寂しげな雰囲気を持たず、むしろ逞しささえわたしに感じさせた。
「おー暮れてきた」
 隣から聞こえてきた声はやけに棒読みで、でもわたしはそれが彼の感情表現であることを知っていて、だからこそ顔を見ることができなかった。見たくもない空に、川に、街に、視線を泳がせる。ぼんやりと。漠然と。しばらくその景色の中を飛んでいたさっきの鳥はいつしか遠のき、最後に視界の端をかすめてどこかへ消えてしまった。
「さよなら、鳥」
 呟くように言葉を漏らし、そして、ぽつり。こういう色のときはさ、と彼が言葉を感傷的に放る。
「なんか泣きたくなるんだよな」
 瞬間、どこからともなく湧き上がってきた、泣いちゃえば、と、すりよる猫を突き放すような言葉を喉の中で殺した。温度をもたないそれはひんやりとした感触のまま胸に下りていき、冷たく、硬く、なっていく。
 あとに残ったのは静かな感情で、それはエンドロールの流れた後の静寂にも似ていた。
「そろそろ、さよならしようか」
 本当の別れを切り出すのはいつだって彼だった。もう暗いね、とか、明日も早いし、とか言うのはわたしだったけど、帰ろう、というのはいつも彼。わたしの希望を決定に変える。
 何年も前のことも、つい最近のことも、そして数分前のことも同時にフラッシュバックしてくる。思い浮かぶビジョンはすべてわたし目線で、映るのは、彼の表情、彼の仕草、出で立ち。背景となる景色。通行人エー、ビー、シー。チェス盤を上から見るような見方はできなくて、わたしのことは何も思いだせないけれど、それ以外はすべて完璧に復元できている、そんな世界に改めて自分を置き直したところでものの感じ方や言い様が変わる訳ではない。
 好きです、と言ったら、付き合おっか、と言った。お腹すいた、と言ったら、なんか食べよ、と言った。
 それが当たり前すぎて、いつしか同じ、相容れた、一つのものであるかのように錯覚していたけれど、わたしが口にしていたのは希望や欲ばかりで、それを現実にするのは彼の役目で、対になるものではあるけれど、それ故に決して融け合うものではなかったのだ。
「どの?」
 なんで声が震えるの、と自分を見下す。こんなに細くて弱弱しい声が最初から出せたなら、もっと可愛い女の子でいられたのに。
 うーん、とうめくような彼の声を、わたしは理解不能のサインとして受け取った。一度口に出したことは最後まで言い切らなきゃいけない。変な使命感が喉でつっかえていた言葉を押し上げた。
「どの、さよなら?」
「訊くの?」
「うん」
「俺に?」
 最後のうん、は音にならなかった。掠れた響きが少し弱くなった風に乗って、川を下っていく。
「おまえがしたかったやつでいいよ」
 その言葉に、今日初めて彼の顔を見た。彼の目もまたわたしの瞳を捕らえる。真正面から見つめあって、でも気まずさなんてなくて、むしろ自然で、最初からこうすればよかったのに、と思う気持ちがないといえば嘘になるような気がした。一切の考え事を自主的に放棄した空っぽの脳で、ふと、こんなに綺麗な人だったっけ、と思った。
「最後のさよなら、だったよね」
 小さく頷く。
「これからずっと一緒、じゃないほうの」
 もう意志を揺るがせたくなくて、さっきよりも大きく頷く。優しいはずの言葉が胸をえぐって、大事な、柔らかい、温かいものをすくって、どこかへ持って行ってしまって、もう何も感じなくなっていた。何かをしたがっている彼の手にも、指にも、一歩踏み込もうとする足にも、別れ際にいつも困ったように歪む唇にも、それ以上の何かを見出す気力が失われていた。
「ばいばい」
 噛み締めるように言うつもりだった、最後の言葉は、幼子の語学訓練のように薄っぺらい音で、響きで、一瞬で空に消えた。
 その儚さに、急に苦しくなって、気道が狭まったような気がして、大事なものが返ってきたような気がして、スカートのすそを下向きに引っ張って、彼に背を向けて一歩離れた。一歩、また一歩、と行くうちに、この場所にわたしが存在していることすら辛く思えてきて、足を前に出すのがどんどん速くなる。増していくはずの解放感は得られず、切なさだけが胸でうずいた。しかし、それには安堵にも似た安らかな色があった。
 もうこの感情をなくしたくなくて、服がしわになるのも構わず、胸のところをぎゅうっと掴んだ。
 振り返ると、大好きな背中は当然、小さくなっていた。夜に染まり始めた空に溶け込みきれないのは、遠のいた肩が小刻みに揺れているかららしかったけど、それには気付かないふりをして、踵を返し、わたしは再び歩き出した。
 別れというには幼稚すぎて、破局というには美しすぎる気がした。
 

 

 

色は泣くことはできるけど怒ることはしない (title by 舌)

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