早川くんと、目が合った。
 それも、縁なんかじゃなく目の、視線の、芯が重なったような錯覚に、身体に電気が走る。まるで、もともと一筋だったようにぴったりと。廊下を埋め尽くす生徒の話し声とは、まったくもって別の次元に存在しているような。まさに視線を具現化したような。そのラインを例える言葉が一瞬にして脳裏に浮かぶ。否、言葉ではない。それは感覚として知っているだけのもやもやとした曖昧なものだ。ラベルを読み上げなくても中身がわかる食べ慣れたジャムの瓶だ。それを敢えて気にして説明しようとするのさえ野暮であると感じるくらいにわたしの感情のパターンとして記録されているような。
 ちゃっかり、一、二、と数えはじめたわたしだけど、三を口にしかける頃には、早川くんはもう彼の教室に足を踏み入れて、級友の輪に入って、いつもどおりの唇を斜めに吊り上げた意地悪そうな笑みを浮かべて、楽しそうに声をあげて、そう、もう交錯する視線なんてなかったかのように、見えたはずの轍は空中分解、名残もなく宙に散っていった。
 教室はサンクチュアリ。ホームルームは特に。他クラスの生徒の侵入を正当な理由で拒否できるから。それはきっと物理的な問題だけじゃなく、外の声が届くのが気に障る人もいれば、廊下からの教室内を品定めするようにぐるりと目が向けられるのが嫌な人もいるはず。
「赤い」
 隣を歩く理津子の視線がわたしの頬をちくりと刺す。発言に主語がなくたって彼女の言いたいことはその視線が教えてくれた。
 真っ赤、と付け足して自分で自分の発言をおもしろがってクックッと丸めた肩を震わせる理津子。その腕を軽く引っ張り、わたしは足早に早川くんの聖域を過ぎて彼女をわたしたちのそこに放り込んだ。

「激しいってば」
 許可もなくわたしの椅子に掛けて腕をさするか弱い友の顔を覗き込むように、ごめんね、と萎れてみせると、違う、と、けなげで不幸な乙女はどこへやら、演劇部顔負けの切り替えで、紫帆のこと言ってんの、と背もたれに体重を預け、わたしをちらりと見た。そして、過剰反応しすぎ、と目を陰湿に細める。
「だってわたし」
「だってわたし?」
 まだ何も言っていないのに勝ち誇ったように、下からの視線なのにも関わらず見下すような、否、それよりもわたしは立っていて理津子は座っているという体勢的な事実から来る優越感と、姿勢そのもの威圧感が手伝って、かなりの強さだ。
「だってわたし……」
 それに負けてわたしは膝を抱えてしゃがみこみ、顔を埋めた。切ったばかりの髪が肩のあたりで揺れ、わたしの頬にかかって収まる。長らくの縛り癖でだいぶはねたりうねったりはしているけど、まあこんなもんでしょ、と頭の片隅で思った。
 ついでに腕時計をちらりと見ると、始業二分前。先生はまだ来ていないし、教室内もだいぶ騒がしいので、とりあえず青春ドラマを続けることにする。
「……理津子みたいに器用じゃないもん」
 そっかそっか、と甘い声色が理津子の細い指と一緒に頭に触れた。
「やっぱかわいいよ、紫帆」
「いい、おべっか」
「そんなんじゃなくて。なんかよしよししたくなる」
「してるじゃん」
 あのねえ、と息が多めに漏らされ、頭の上の重みもすっと離れた。
「したくてするのと、したくなくてするのと、しなきゃいけなくてするのじゃ全然違うの」
 その言葉がちょっと心に引っ掛かって顔を上げると、理津子は自分の膝に頬杖をついて前のめりにわたしの表情を窺い見ていた。
「そんなのされてるほうはわかんないよ」
「わかる」
 ぶれない視線に乗って理津子の言葉がまっすぐ飛んでくる。
「わかんないって」
「わかるよ」
「でも」
「わかるの」
 わかるったらわかる、と理津子は立ち上がった。つられて腰を上げると、理津子が仕草で座れというのでわたしは自分の席に落ち着く。
「じゃあさ」
 逆光。腰に手をあてた理津子に後光が差しているのが可笑しい。でもその目が真剣さと好奇心でらんらんと輝いていることは、身体から出る暖色のオーラから感じ取れた。
「あたしが教えたげる」
 何を、と鞄から教科書類を取り出して机上に積んだりページを広げたり作業しながら視線だけは理津子に向けて尋ねると、彼女は、心と言葉の関係、と抜群の均整で片目を閉じた。こんなに清廉なウインクはそうそうあったもんじゃない、と思って、あんたのがよっぽど可愛いじゃないの、と喉まででかかったけど、理津子は以後起こりうるしょうもない謙遜論争を好まないのでそのまま流し、自席へ戻る理津子の弾む背中をぼんやりと見送った。
 ふと前へ向き直ったわたしの視界に入ったのは広げたノート。前回の順番で作図した長方形の黄金比の値を自分にテストしながら、無限少数を羅列するぼんやりとした脳で、さっきのウインクのほうが綺麗だったな、と思った。
 そして、ややできすぎた青春ドラマに終止符を打つつもりでノートの左端に今日の日付を記した。

 午後の授業は緩やかに進み、気付けば終業のベルに急かされて教室から出ていく時刻になっていた。
 大きな鞄をあちこちにぶつけながら走って出ていく野球部員を見送り、楽譜を手に甲高い声で談笑しながら教室をあとにする合唱部員に手を振り……大半の生徒が教室から出ていってもまだのろのろと支度をする理津子を待った。
 ごめんねー、とは言いつつも、そこまで急ぐつもりはなさそうだし申し訳なさなんて微塵も感じられないのがちょっぴり腹立たしい。けど、ん、なんか、なんかかわいい。どうやらそれは既にわたしの中で理津子らしさとしてインプットされているらしく、今さら何か言うとかどうとかの問題ではないのだ。きっと。
「お待たせ」
と言われて気付く。ハッとかギョッとか擬態語が飛び出すような驚きではなく、ぼんやりと浮かんできたことだけど、もしかしたらわたしは散々待たされたあとのこの一言が好きなのかも、と。
 ふわり、さらり、とカーテンが開けられて、光が舞い込んだ感じの発見。それは淡い赤、緑、黄色。花の咲き乱れる春の野を思いっきり印象派っぽく書いたような色彩感。これもまたわたしの好きな感覚であった。
「今日ってさあ」
 ひとり空想の春風に酔いしれるわたしのことなど露知らず、理津子が革の鞄を肩に掛け直しながら、とろりと続けた。
「部活ないよねえ」
 うん、と頷き、わたしはわたしでリュックサックの肩紐の食い込みを直す。が、別方向からの力によって再び白いブラウスに切り立ったしわが刻まれた。
「えへへー」
 どうしちゃったの、と突っ込む前にわたしのリュックを掴んだまま小走りになる理津子。肩紐をきゅうと引かれるわたしもつられて、つんのめりかけながらも足を素早く前に出した。
「じゃあさ、久々にお茶しようよ」
 遅れて聞こえた理津子の声は怠惰さなんてどこかへ吹っ飛ばした後らしいので、台風一過ボイス、と名付けてあげることにした。
 理津子はそのままわたしを引きずるようにして、友達を待つ生徒であふれかえる廊下を器用に抜けていく。ふと見上げた窓からは、その光線の中に日焼けという単語が混入しているんじゃないかと思うくらいに健康的なのか不健康なのかわかんないような陽光が差していて、その向こうにはきらっきらの空が見えた。
 
 暑い日差しを避けるように駅の近くのカフェに飛び込んで、ふうと一息、汗を拭く。
 わたしより少し背の低い理津子がカウンターにもたれるようにして、アイスミルクとスコーンを注文するのを視界の端に入れつつ、上のほうに取り付けられたメニューをそれとなく流して見る。
「ご注文はお決まりですか」
 店員さんの決まり文句に、咄嗟に口を突いて出たのはいつものカフェモカだった。他のにしとけばよかったかな、なんて考え直そうとしたところに、ご一緒に甘いものはいかがですか、と微笑まれ、半ば押し切られるようにして、レアチーズケーキを追加する。
「五百七十円です」
 地味に痛い出費だな、と思いつつ、千円札をぺらりと渡した。だめもとで探してみると、十円玉が七枚みつかったので、それだけで幸福感に昂る感情を指先に込めて、お札の隣に静かに置いた。
 ごゆっくりどうぞ、とさらに目を細める店員さんにそそくさとお礼を言い、品物を受け取って理津子がとっておいてくれた席に着く。
「カフェインは成長に悪いですよ」
 メールをチェックしながらちらりとわたし――の手元のカフェモカを睨むように言う。
「いいもん。わたし、理津子より大きいもん」
 スカートのしわがどうも気になって、もぞもぞと座り直す。リュックサックは足元にぴったりと寄せて置いた。
「座高は同じくらいなのにねえ」
 自分で言ったのに悲しくなっちゃう、と携帯電話を脇に置いて、アイスミルクに口をつける理津子。
「わたし牛乳好きだけどねえ」
「んー、なんかその呼びかたダサい」
「アイスミルクね、ごめんごめん」
 何か話したいことがあるからこそお茶に誘うものだと思うのだけれど、やっぱり単刀直入ってことはほとんどないし、ひどいときには話が遠回りしすぎちゃって核心に触れないままバイバイしちゃうときもある。
 それでも楽しいって思えるのが理津子との相性の良さであったりなかったりする。

 その後もしょうもない話を続けて六時を回ったところで徒歩通学の理津子とは別れ、駅へ向かう。なるべくゆっくり改札を抜けてのろのろと階段を上がってだらだらしながらホームに出たのに、わたしの乗る各駅停車の電車はまだ来ない。
 特急やら急行やらの速い電車がスピードを少しも落とさないでビュンビュン目の前を通り抜けていくのを見送るのは、なんとも言えない切なさがあった。
 手持無沙汰になってしまって、手提げに入っていた英語の参考書を広げたけれど、吹き抜ける夕の風と電車の起こす風にページをあおられて、ついでに肩のあたりで髪も揺れて、額にかかって、あとはなんだかなにも考えたくなくて、どうしても集中できなかった。
 こういうときまで勉強しなくてもいいかな、と自分に言い訳して、サブバッグの中の携帯電話に手を伸ばす。駅や電車で携帯電話をいじるのは、正直あまり好きではなかった。こちらにそんな意図がなくったって、周りからしたらどうしても悪い印象しか感じられないだろうから。
 着信も、新着メールもゼロ。こんなことで寂しいとは思わないけど、さっきから感じているちょっとした空白感がなにかで満たされてくれるはずもなかった。
 辺りは暗くなってきて、わたしと同じように電車を待つ同校の生徒やら会社員やら母親やら子どもやらの黒い影の間に、民家の灯りや街灯がぽつりぽつりとともる。その中でこちらに近づいてくるのがある。電車が来たな、と無感動に思った。
 立ちっぱなしなのが影響して、背伸びをすると膝の裏が痛みを伴って引き攣る。肩の疲労もなかなか溜まっていたので、ちょんと軽く跳んでリュックサックを背負い直した。
 そしてそのまま滑りこんできた電車にするりと乗車、熱のこもった背中をリュックサックから解放して、空席に腰を下ろす。わたしの邪魔をする風はないので、今度こそ参考書を広げた。
 ふと、理津子はどんな話がしたかったんだろう、と考える。もしかしたらそんなことなんてまるで考えていなくて、ただ単にお茶がしたかっただけなのかもしれない。けれど、わたしはそう考えずにはいられない。やっぱり。なにか目的がないと、人を誘うことなんてできないんだ、わたしは。
 すべては、断られるのが怖いから、なんて弱虫な理由かもしれないけど。
 反対列車を待ちます、とアナウンスがあった。その間にも乗車してくる人がいる。すれ違う電車の切り取られた窓から伝わってくるのは疲れ、やつれ、虚ろな表情。視線を上げている元気も、意味も見出せないのだろう。友達と乗って来ているはずの生徒の間でさえ会話はなく、視線を上のほうに向けて嬉しそうにしているのは母親に連れられた子どもくらいのものだった。
 思ったよりも多くの人が乗って来て、電車は席が埋まる程度には混んでいた。息の詰まる暑苦しさを全身に感じる。伸びをしようにも隣の人に迷惑がかかるんじゃないかと気になって、それすらもできずにいた。身体が直接あたらなくたって、狭い空間でもぞもぞ動かれるのは、どんな寛大な人間でもさすがにいい気はしないだろう。こんな時間でもあるし。
「あのさ」
 ためらいがちな声に、参考書から目を離して声の主を見上げる。途端に、引きずっていた空白感が非日常でどこかふわふわした感じで埋められる。早川くん、だ。鞄を持って、わたしの前に立っている。
 同時に数人がこちらをちらりと見たような気がしたけれど、それもそう長いものではなかった。
 早川くん。
 早川くんがわたしに話しかけてきている。今まで話したことなんてないのに。でも目が目を捕らえてくれていない。話しかけられているのに、なんだか気まずい空気があることはどれだけ譲歩しても否めなかった。
 今日、学校で目があったときのほうが、もっと綺麗な、清廉な、恋だと思った。思ってみてはじめて気付く、恋、なのかな、これ。好きだけど、この気持ちは愛って思えるほど壮大なものじゃない。恋っていうのはやっぱり愛と隣り合わせにあるべきだと思う。
「髪、切った?」
「うん」
 恥ずかしいなんて思ってないけど、頬が熱いのは確か。
「え、でも」
 どうして、と言葉を紡ごうとしたところで、早川くんの手がわたしを制止する。その動きに抑止のニュアンスは感じられないけど、彼が動くとわたしはもうなにもできない。全部吸収したいって脳が勝手に判断しちゃって、わたしからアクションを起こすなんてことはありえなくなっちゃうんだ。
「今日、廊下で見たときに、あれ、と思った」
 一言で幸せになれた。恋愛なんて高尚なものとは掛け離れた言葉だけど。やっぱりわたし、恋してる、と思った。このほかほかした気持ちがもし愛じゃないとしたら、どんな名前をつければいいのか、わからないもの。
 早川くんの照れたような視線の外しかたを見て、このままもう少し、話せたらいいのに、と思った。まっすぐ見てくれてなくても、その会話に有意義さなんてこれっぽっちもなくていいから。
 すべての矛盾が、受け入れられる。だって早川くんだから、だって、だって、だって。
 

 

 

だって情すぎるもの

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