新しいスニーカーなんて履いてくるんじゃなかった、と今さら後悔しても何も変わらないので、せめてもの慰みにその場にしゃがみこんで足の負担を減らす。ローファーのせいでできた靴ずれとはまた違う位置がずきずきと痛む。
 二重の靴ずれなんて聞いたことないわ、と自然に深くて重い息が出た。前髪越しに見る世界は通り風が巻き上げた嵐のせいで少し砂っぽい。
「ふみちゃん早く! もうスタートしちゃうよー」
 今から持久走をするとは思えないほど快活に飛び跳ねながら手招きする佐水。この炎天下で上下紺色のジャージを着こんで、それでも涼しい顔をしている。トレードマークのポニーテールはいつもよりご機嫌な様子で、弾むようなカールを風に揺らしていた。その後ろで、前半に走る女子生徒たちが白い体育着と紺色のハーフパンツ姿で準備運動やらストレッチやらをしながらお喋りに花を咲かせている。
 今から体力消耗してどうすんのよ、と佐水には聞こえないように言い、やれやれと立ち上がって彼女の元へだらだらと歩く。
「あたし、めっちゃ頑張って応援するから」
 スタートラインに並んだわたしに佐水がグッドサインを突きつける。あと、ちゃんとアキレス健のばしたほうがいいよ、なんてコーチっぽくアドバイスまでよこしてくる。名簿順で、斉藤ふみ、の後は、佐水明希子だった。だからバディを組まされた。ただそれだけなのにものすごく親切にしてくれる。普段、教室でいつも二人でいると言ったら嘘になっちゃうようなそこそこの間柄だから、ちょっと驚いた。だけど、悪い子ではない、とみんなが口をそろえて言うので特に嫌な気もしなかったし、みんなもそうするよう苗字で呼ぶのがなんだかしっくりくる気がしたのでわたしもそれに倣った。
「だいじょうぶだよ」
 わたしも一応運動部なんだからさ、と笑ってみる。あ、そっか、と軽く舌を出して笑う佐水を、この天然め、と隣の子が小突いた。
 ポロシャツをジャージにきっちりとしまってホイッスルを首から下げた先生がピストルを握った手を空にかざし、反対の手で耳を押さえた。その一挙手一投足が軍隊的でおもしろい。ちらりとそちらを見て笑いのタネを補給していると、合図の一発の後に佐水のコロコロと笑う顔が視界の端を掠めた。
 走り出して、まずは先頭集団の中に身体をねじりこむのに躍起になっていたらそれで一周分走り切ってしまった。少しずつ、聞こえる足音が小さくなっていく。集団から外れてどんどん後ろへ行ってしまう子たちをわざわざ振り返る余裕はなかったし、見開いた目と蒸されたような頬、荒い息を排出する鼻で構成されるこの必死の形相を他人に晒す勇気もなかった。
 二周目に入ると同時に、ふみちゃんがんばれ、と佐水が手を振ってくれるのが目に入った。あと四周、と自分の足に伝えるつもりで腿を軽く叩く。少し遅れてかかとの靴ずれがずきずき痛んで返事した。二点あったはずの痛みどころは感覚が鈍って一つに合体してしまったように感じる。走るのを止めようという要求は無視して前を向いて思考を別のところに移す。先頭を走るショートカットの子は、確か陸上部だったと思うけど、やっぱり速い。なんといってもフォームに乱れがないのだ。最初と同じ足の出し方で、腕の振り方で、首と肩はほとんど動かない。それはテレビ中継でよく見るマラソン選手の背中によく似ていた。
 三周目。やっぱり、そんな子についていくなんて無理かも、いや無理じゃない、と脳内で天使と悪魔が言い争いを始めた。けれど、それを打ち消すくらいの音量で、ふみちゃんファイトー、という佐水の叫びが耳に届いた。ひるんだ隙に、天使と悪魔を脳内から追い出し、わたしは無心で走ることを心掛ける。無心、無心、無、無、無……けれど、今度は無という感じがでかでかと浮かんでしまい、結局はそれも脳内から捨てなければならなくなった。かかとの辺りの痛みは存在するのが当たり前になってきており、少しずつ麻痺していくのが自分でもよくわかった。
 四周目にもなると、さすがに鼻呼吸だけでは追いつかなくなり、ただでさえ気だるい表情にだらしない半開きの唇が加勢してくる。測定の終わった男子たちがときどきこちらをちらちら見るのがどうも気に障って、別段取り沙汰されている訳でもないはずなのに何故か意識してしまって髪に顔を隠した。佐水が、ちゃんと前見て走りなよー、と野次を飛ばすのには聞こえないふりをして。
 それでも五周目の後半に差しかかると、佐水のポジティブな応援に助けられた。ショートカットのあの子は既に一番手でゴールしており、さすがにここまで来るとそろそろ飽きてきたらしく座り込んで体力を温存している後半組の生徒の中で、ひとり立ったまま、それもときどき飛び跳ねたり、やきもきしたようにうろうろ動いたりしながら、ふみちゃんふみちゃん、と名前を呼んでくれる。嬉しいと素直に思うのが誰に知られる訳でもないのにちょっと恥ずかしくて、心地よいバックミュージックとして聞き流すことにした。
 それにしても耳触りのいい声だな、とふと思う。風を裂くように、というよりは風に乗って届くのだ。自然と調和したような響きがわたしに不思議と元気をくれるらしい。
 白いテープはなかったけれど、最後の一歩には少し感動を込めて、ぴょんと白線を飛び越えた。すると走り寄ってきた佐水に腕をとられる。掠れた途切れ途切れの声でしか反抗できないわたしを引っ立てるようにして、佐水は幼子にかけるおまじないのように、クールダウン、クールダウン、と唱えながらトラックの内側を、徐々にスピードを緩めながら回る。
 わたしと佐水がスタート位置に戻る頃にはもう大半の生徒がゴールしていた。
「お疲れさま」
 一応こくりと頷いて感謝の意を伝えようとしたわたしににこりと微笑み、佐水はまた背中を軽く叩いた。
「じゃ、あたし次だから」
「後半組、並んで」
 先生の指示で、今まで応援しつつ休んでいた子たちが立ち上がってトラックの内側で列をつくりはじめた。やだ、走りたくない、なんてぼやきつつも、やはりそれなりのプライドはあるらしく、少しでも有利なポジションを陣取ろうと愛想笑いを浮かべながら前方にじりじりとにじり寄る様子がなかなかおもしろい。
 本日二度目のピストルの合図で後半組が一斉に動き出す。けれど、そのスピードは人それぞれだ。今からトラック五周の長旅に出かける友たちに、がんばれ、ファイト、と声援が飛ぶ。
 声は自分のバディに向けられるけど、自然と目が行ってしまうのは、紺色。弾むようなリズムと、それとは相反する地を這うような正確な足取りが特徴的だ。先頭切って、という訳ではないけれど、比較的前の方に位置しながら、佐水は軽やかに足を振る。口の端から零れる笑みが余裕を物語っているところからすると、まだまだ全力ではないらしい。
 前に数人を残したまま、佐水は涼しい表情を浮かべたまま一周目を駆け抜けた。かかとの靴ずれが今さら訴えてくる痛みと全身の虚脱感をひしひしと感じつつも、わたしの目の前を颯爽と通り過ぎていく佐水に、あと四周、と声を掛けた。
 その後に十数人が続く。ただの体育の授業とは思えないくらいに上がっていくボルテージと歓声の中で、佐水ってスプリンターなんでしょ、とミニ情報が耳に入る。素直に、へえ、と思いつつ、脳のメモ帳に書き留めておく。
 二周目に入ると、佐水は腕回りで揺れる袖をボーイッシュにまくりあげながら二、三人抜いていく。ちょっと本気で走り出したのかな、と思ったけれど、その足取りを見る限りはそうでもない。佐水に追い越された子たちはきっとペース配分がうまくできなかったんだろう。外側から大回りするついでに数人を追い抜いたのは圧巻だった。三周目に入ろうとする佐水に、ファイト、というと、彼女は親指を立ててにかっと笑ってみせた。
 三周目も半ばになると、体力、走力に合わせてみんな散り散りに走る。佐水は二番手。ちょっとだけストライドが広くなってきた気がしていたら、あっという間に先頭のすぐ後ろについた。競っている素振りは見せていないけれど、先頭の子に佐水のペースが崩されているのは明確。あと二周、と叫ぶ声が、さっきよりも自然と大きくなる。
 四周目。決意めいたものが佐水の顔に見え隠れし始めて、それからピッチが上がった。しばらく先頭の子にぴったりついて走っていたけれど、四周目の終わりのコーナーでいとも容易く抜いてしまい、トップに躍り出た。
 五周目。ラスト、と応援する側のわたしの胸にも高揚感が押し寄せる。彼女を追いかけるのはもはや彼女自身のポニーテールだけだ。無駄な上下運動がないので、女の子らしく縦に弾むことはないけれど、コーナーを曲がる度に遠心力で外側になびく様子がとても綺麗に映った。小麦色の腕の振りが激しくなり、眼差しがすっと鋭くなった。
 初めて出会う表情だけど、わかる。佐水の真剣勝負の顔。
 それでも楽しそうな印象は変わらない。彼女が見据えるのは白線だけの安っぽいゴールじゃなくて、もっと前に、もっと上にある大きくてきらきらしたもの。
 五周を走り終わって、それでも肩を上下することもなく倒れ込むこともなく、悠々とクールダウンに向かう佐水の背中を捕まえて、わたしは、お疲れさま、と微笑んだ。なんか、凄かった、と正直に興奮を伝える。
「応援してくれて、ありがと」
 向かい風に前髪をさらわれて、頬を叩かれて、真っ赤になったそこをふっと緩ませる佐水。細くなった目はいつものおとなしそうなそれではなく、どこか力強さを宿しているように感じられた。
 なんか不思議な子、って思ったら、佐水のことがもっともっと知りたくなったし、同時にもうたくさん知っているような気もした。
 

 


 

トマトみたいなっぺをした子 (薇式シガレット)

 

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