法子がちょっと背伸びをしながら数学の問題を書きたてる黒板の右端に八、二、七の数字が並ぶ。
 気付けば、三年生の夏休みはもう終わろうとしていた。六月に部活動を引退した僕にとっては、勉強に明け暮れた振りをしつつ、適度に息を抜いて遊び回った六週間だった。長く続いた課外授業も今日で終わりかと思うと少し気合が入る。
 このやる気が多少なりとも続いているうちに、と使い込んで端のほうがぼろぼろになったテキストを鞄から引っ張り出して今日のところを開いてみる。矛盾しているところはないか、計算ミスはないか、初めから見直そうとしたけれど、できた、という平たい声に耳を奪われて、次の瞬間には目が自然に法子の女らしくない鋭い字を追ってしまっていた。
 当然そんな僕の視線には気付く由もない法子は上半身だけで振り返り、隣でテキストを手に眼鏡を光らせる男子――博士に、これでいい、と確認する。博士はひとつ頷いて式を二、三補った。やっぱり足りなかった、と肩を落とす法子に博士は、これだけできてれば上等だよ、と珍しく微笑みを向けた。休み時間の教室の喧騒にかき消されて途切れ途切れだけれど、唇の動きを見ていればそれらの言葉は明白だ。
 僕が偉そうにいうのもなんだけれど、あれくらいの不足ならテストで点を天引きされることはないだろう。博士もそれを理解した上で、あえて重箱の隅をつついたのだと思う。なんせ次は神経質なことで有名な先生の授業だ。お節介なくらいに親切な解法を提示しておく必要がある。
 数学得意になったんじゃない、と唇を小さく動かす博士に、法子は、博士のおかげ、と言って手に付着したチョークの粉を軽く払った。そして、いつもありがとね、と頬を緩ませる。
 文系科目が得意なのに理系クラスに入ってしまう女子生徒は少なくない。法子もそのひとりだった、少なくとも二年生の頃は。苦手というほどではなかったらしいが、それでも理系科目に、というよりは周りにコンプレックスを抱えていた法子は博士に頼んで数学の面倒を見てもらっていた。その成果が出始めたのは確か今年の春頃であったように思う。対して、完全理系で苦手な国語を克服する気のないままここまで来てしまった僕の怠惰さと無計画さに涙が出る。
 そのまま一番前の席に着く博士を視界から外し、床の上に不作法に置かれた鞄や辞書を跨ぎながら僕のほうへ歩いてくる法子に注意を向ける。板書お疲れ、と言うと、どうも、と軽い会釈をよこしてきた。一度細められた目が開かれるのと同時にそれは僕のテキストを捉える。
「ちゃんと予習やってあるじゃん」
 偉い偉い、と法子が僕の頭をポンと叩く。
「昨日はすぐ寝たって言ってたのに」
「電車でやったんだよ」
 法子と別れた後に、と付け加えると、彼女は不機嫌そうに眉を寄せた。
「なんかあたしが邪魔してるみたいね」
「そういう訳じゃないけどさ」
 なんでそうなるのかなあ、という僅かな腹立たしさは、まあいつものことか、と僕が日ごろの付き合いで獲得した寛容さに打ち消される。
 法子と下校を共にするのは、ただ単に二年連続で同じクラスで、同じ方面から通っていて、博士という共通の友達がいるだけのことではない。何かあるのは自覚しているけれど、何故か馬が合うというのが今のところの感想である。
「博士だっているんだからさ」
 法子と博士と三人で駅まで歩いて、そこから電車に乗っていくのが最近の下校パターンだった。部活の友達と群れて騒ぎながら歩くのもなかなか楽しかったけれど、ふたりと歩くのは自分の居場所が確立されたような心地よさがあって気に入っている。この言葉にできない感じが、馬が合うということなのだろう。
「じゃあさ、博士が降りたらお喋りは無しにしよ」
 唇を尖らせる法子に、そういう問題じゃないだろ、と言うと、フンと鼻を鳴らす音が返ってきた。
 完全に怒らせたな、と直感する。なだめるのにはだいぶ時間がかかりそうだ。椅子の背もたれに体重を預け、なんでそうなるかなあ、と口には出さずに毒づいて博士の背中に助けを求める。当然彼は振り向きもしないけれど。
「ね、そうしよ」
 絶交を突きつけるよりも酷な要求をしてくる彼女は、思いのほか柔らかい表情を浮かべていた。
 斜に構えた解釈もすぐふてくされるところも感情の出やすい顔も、数学を克服した努力もお礼を言うときの笑顔も電車を降りるときの照度の差が生む僅かな陰りも全部法子なのだと思うと腑に落ちないところがある。
「あたしたち、受験生だしさ」
「だからって四六時中もがりがり勉強してられるかよ」
 言ってしまってから、博士ならやりかねないな、と心の中で前言を撤回する。
 テキストを手にしたまま、あたしもいろいろお喋りしたいんだけどさ、と法子。半開きの唇と伏せがちな目がまだ何か言いたげにしているけれど、肝心の言葉が出てこない。
「誰かと電車乗ってるときくらい息抜きしたらいいじゃんか」
 まだ夏だしさ、そういうの大事だろ、と諭すと法子はしれっとして、わかってるよ、と言う。
「じゃあ何でだよ」
 煮え切らない態度の法子と、それが何に対して起きている態度なのかわからないもどかしさが僕を苛立たせる。嫌いになるとか面倒になるとかでなく、わかりあえていないことが何よりも気に障る。
 法子はまだ何か言い足りない顔をしている。僕に伝える言葉をその胸に隠したままにしている。いつもそうだ。重要なことに限って引っ込めてしまう。しょうもないことなら呆れるくらい口を突いて出るのに。
「じゃあさ、もういっそのこと、これから別々で帰るっていうのは?」
 でも、本音を引き出すのはいつだって僕でありたい。たとえどんなやりかたであっても。
「それはやだ」
 スカートをぎりぎりと握りしめてついでにテキストを皺くちゃにしてしまう法子。とにかく、と言葉を繋ぐ。
「あんたといると、すぐ駅着いちゃうのよ」
 わかる、と強く問いかけ、時間がなくなっちゃうの、と言い捨ててから席に戻っていく法子をぼんやりと見ながら、僕は、とりあえず今日くらいは一緒に帰れるといいけど、と呑気に考えていた。アイスモナカ一個くらいで機嫌直してくれたら楽なのに、とか。
 でもその一言が法子の胸で渦巻いていたもやもやに包まれて出てきたって気付かされたのはもっとずっと後のこと。国語、とりわけ現代文の苦手な僕には到底理解できない交錯がその言葉の通り道にはあったらしかった。
 

 


 

わざとがましいまわり (I love you企画)

 

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