たった一文、海が見たい、とメールが届いた。
 羽鳥悠子、という差出人の名前が、無数の情報と電気の通う小さな塊を世界で一番重たいものにする。それを一日中制服のポケットに入れておくのは予想以上に気疲れすることだった。
 きっと彼女が見たいのは誰もが美しいと認める、本物の海。写真家がわざわざ撮りに行くような南国のそれだろう。僕は近場の海の可能性を本能的に排除する。
 住宅街を通り抜ける電車は、安定が悪く、がたがたと揺れ、その度に立ちっぱなしの僕はドアに肩をぶつけては痛い思いをしている訳なのだが、そこ以外に体重を預ける場所などないので、仕方なくこの不規則な振動に身を任せる。ドアは僕が触れることを拒みはしなかったけれど、僕に執着はしてくれない。浮いては沈む、ボールのように。寄せては返す、波のように。こちら側のドアが開くのはあと幾駅も過ぎてからだから、その点では何の心配もなかったけれど。
 毎日は、くりかえし。起きて、支度して、登校して、勉強して、弁当食べて、勉強して、部活やって、勉強して、下校して、勉強して、眠って、起きて。その間にあるとてつもない数の諸々の動作。ひとつひとつに意義を感じていられる余裕なんてない、日常。なんて窮屈なんだろう、とため息が出る。
 しかし、と考えたところで足元に置いたプラスチックの書類鞄がパタリと倒れ、思考が途切れる。隣に立っていた童顔の女子高生が、こちらをちらりと見やったけれど、横になったそれを目にするなり、興味なさそうに唇の端を少し下げて、手もとの参考書に視線を戻した。そんな様子にちょっとしたいらだちを覚えながらも、のろのろと鞄を拾い上げ、まだドアにもたれた。少しの疲労感が、僕の身体を下にずりりと引っ張る。
 ふと、視線をぼんやり前に戻すとまた女子高生と目が合う。慌てる様子もなく、さりげなく、あくまで自然に目をそらされる。
 その虚ろな目がいつかの彼女――悠子を思わせた。
 悠子。悠子の生活を思えば、確かに僕は自由なのかもしれない。多少の縛りはあるものの、好きな時に好きなものを食べ、眠りたいときに眠ることができ、この安定した生活を打ち捨てて世界を見に行くことだって、やろうと思えば、いくらでもできる。なんでもできる。
 けれど、悠子に許された自由は、すべて彼女の脳内にしかなかった。でも、そこでならなんだってできた。例えば、突拍子もないこと、今の生活と何の脈絡もないこと、勉強も、食事も、自分探しの旅も、頭の中なら。そこでしか、されど、そこでなら。
 僕の降車駅が車内アナウンスで告げられ、僕はのろのろと身体を起こした。開くほうのドアに歩み寄る。
 外は真っ暗で、車窓に映るのは当然その場所にあるもので、何故か後ろ向きになる僕の心のうちまでは映らなかった。僕の顔に影をつくる照明が心の底を照らしてくれるはずもなく、ただ頼りないか細い、黄色い光が無感動に存在していた。それを眺める僕がこの世で一番空虚なものであるように感じた。
 
 家に帰ってリビングを覗くと、母は洗濯物をたたんでいて、父はぼんやりとテレビを見ていた。いや、たぶん彼に、ぼんやりと、なんて自覚はないのだろう。怠惰だと気付かないから、日常は平和なのだ。
 階上の僕の部屋に入り、リュックサックと書類鞄をベッドの脇にドサリと下ろし、その身体の流れに逆らわずベッドに倒れ込んだ。目を瞑ったら、意識はもう飛んでいくだろう、と自分でもわかっていた。それでも身を任せるしかできなかった。いや、そうしたかった。このままどこまでも沈んで行けたらなんて楽なんだろう、と思った。僕に何かを求めてくるものなど何も世界へと、行ってしまいたかった。けれどそれが叶わないことも悟っている。眠気と罪悪感がせめぎあい、結局、勝ったのは睡魔だった。
 
 目覚めは決して清々しいものではなかった。身体にまとわりつく着古しのシャツ。額に張り付いた前髪。手近にあったタオルで汗を拭っても、寝起きであるにも関わらず、いや寝起き故に、全身を襲う気だるさまでは拭いきれなかった。黒に覆われた窓が、まだ夜明けを迎えていないことを静かに示唆している。
 時刻を知るためにうす暗闇の中を手探りで携帯電話を探す。午前一時二十四分。新着メールが一件もないことに心細さを感じてしまう自分の、この小さな電気の箱への依存を憂いながら重い身体を起こした。
 今起きてしまったら少し睡眠不足であるような気もしたけれど、予習して復習して身の回りのことをいろいろ片付けたらいつもの起床時刻ぐらいにはなるだろう、と簡単に算段して、立ち上がる。
 
 家族を起こさないように極力静かにシャワーを浴びてから部屋に戻る。ふと気付くとまた携帯電話に手が伸びてしまう自分がいた。学校で着信音が鳴ることを危惧して常にすべての音源を断ち切ってあるので、電話がかかってきたとしてもメールが届いたとしても何かの速報を受け取ったとしても僕はすぐには気付けない。だからこそこまめにチェックする必要があった。といえば聞こえはいいが。
 机と椅子の間に身体をねじりこんで、英語の教科書とノートを広げる。一息ついてから、辞書が鞄の中に入れっぱなしであることを思い出して、いらついて、でも実体のない何物かにあたる自分も嫌いで、また立ち上がって目的の物を手中にした。
 少しばかり反動をつけて起き上がってノートに向き直ると、その奥で密やかに点滅する僕の携帯電話が目に入った。
 こんな時間に誰だよ、と迷惑に思いつつ同時に僕は嬉しさも感じていた。しかもメールではなく電話。人間の温もりがこの冷えた器械の向こうで僕を待っている。普通なら起きているはずのない時間なのだ、夜でもなく朝でもない、気持ちまでふわふわと宙に浮いて、あるはずのない余裕を感じてしまう、不思議な。定位置がなくて、向かう方向も曖昧なこの感情を共有してくれる誰かが存在するということに。
 早く人の声に触れたいのは山々だったけど、相手を確認せずに通話ボタンを押すほど冷静さを失っていた訳ではなかった。
 それに、こんな時間だからこそ、誰からの電話なのか、多少は予測がついた。
 脳内にぽつりと浮かんだ、羽鳥悠子、の文字が明るすぎる液晶に吸い込まれるように移動した。ちょっとためらってから電話を繋ぐ。何も迷うことなどなかったのに僕の親指がすぐに動かなかったのは、非日常的な空気感に少なからず躊躇があったからかもしれないけれど。
「もしもし」
 声帯が上手く震えてくれず、やや掠れた声が出た。さっと見回したけれど喉を潤すものは見当たらない。
「あたし、ゆーこ」
「わかってる」
「メール、見た?」
 瞬間、胸に鋭いものがちくりと刺さる。箱の中の無機質な文字が頭をよぎった。
 結局あれには返信できていないしどう対応していいのかわからない。どういう意図で悠子がそれを伝えてきたのかも、何故僕に伝えてきたのかも。何もかもがもやもやしすぎて、それらとコントラストを際立たせるようにはっきりしているのは、海が見たい、とストレートなこの一言だけ。
「ああ」
「そっか」
 悠子の吐いた深い息の音が僕の耳をくすぐる。
「あたし、海が見たいんだ」

 その奥に聞こえるのは、風の音だろうか。悠子が電話を掛けてくるときはたいてい屋上のベンチに掛けていたように記憶している。きっと昼間のメールもそこからしてきたのだろう。
 悠子のいる病院は僕の家から少し南下したところにあり、その屋上からはそこそこ綺麗な海は望むことができる。あそこの海はウミガメの保護区になっているので地元の人たちがやれ環境保全だと躍起になっているから、それなりの秩序は保たれているはずだ。
「そこから見えない?」
 無理、暗いもん、と悠子の不機嫌そうな声が言う。たぶん唇をとがらせながら、左手で短い髪の毛先をもてあそびながら、右手で僕とのつながりを保っているんだと思う。
「早く、明るくならないかなあって思ってさ」
「もうちょっとだよ」
 壁時計をちらりと見て、あと一時間くらい、と付け加える。日の出はそのもう少し後だが、太陽が地平線から覗く前からだいたい明るくなってくるものなので、海くらいは見えるだろう。
「それでもあたしの見たいものは見えないような気がするんだよね」
 もっと綺麗な海が見たいのか、と訊いた。見慣れた景色ほど美しくないものはない。比較するオブジェクトがあって初めてその良さに気付くのだ。悠子はいろいろなものを知らない。もしかしたら自分の行動が制限された酷く狭い囲いの中にしかないことにも気付いていないのかもしれない。
 あたし、考えたんだ、と言葉を絞り出す悠子の儚げな声色が本人の知らないやりきれなさを物語る。
「何が見たかったのかなあって」
 そしたら、さっき、やっとわかったんだよね、と少しだけ声を弾ませる悠子。それに引きずられるようにして僕の口から、なんだったの、と言葉が漏れる。
「誰かと見たいの」
 ひとりじゃ味気ないなって思って、と付け加えた後に聞こえた微かな笑い声がやけに空しくこだまする。それに乗せて悠子が露わにしたはずの感情は夜風にさらわれて、僕のほうまでは伝わってこない。
 もしかして僕に来いって言ってる、と冗談っぽく尋ねると、さあね、と言って悠子は静かに電話を切った。ツーツーという機械的な音が断たれた繋がりを無神経になぞる。
 不意に訪れた少しの空腹感が余計にひとりきりの夜を実感させた。でも、朝はすぐそこまで来ている。僕は悠子の病院まで自転車で何分かかるかを計算した。
 

 

 

あなたがのぞんだような(title by 舌)

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