父の旧友の林檎のおじさん――彼は酒が入っていなくてもいつも赤ら顔だったので父が勝手にそう呼んでいた――に誘われ、その知り合いの知り合いだという胡散臭い「先生」の講演を聞きに郊外の文化センターまで足を運び、その足で近隣の大型書店に寄ったはいいが突然の雨に足止めを食らい、書店の軒先で林檎のおじさん――かくいうわたしも幼い頃からの呼び癖が抜けていない――が車を回してくれるのを待った。
「それにしてもくだらない講話だったわ」
 ね、と隣に息づく存在を思い出して付け加える。
「そうか」
 彼も彼で、たった今わたしの存在に気付いたかのように遅れて返事をよこしてきた。
「じゃあなんでついてきたのよ」
「エンダイに興味があったんだよ」
 へえ、と適当に相槌を打ちつつ、肩からトートバッグの持ち手を片方だけ外して中から覗くパンフレットを見る。初心者がソフトウェアの実習でつくるような簡単なデザインのそれには、水に浮かべられたようにぐねぐねと波打つ書体で、トンデモ先生の日常的非日常を非日常的日常に! と書体に似合わない、いかにも快活そうな言葉が並んでいた。
 どこが、と鼻で笑うと、いや、あの高さは絶妙だった、と見当違いの答えが返ってくる。
 続けて、材質はそんなに関係ないんだよな、やっぱりあの高さは人目を惹くよな、としきりに感心してみせる彼。お前結構でかいから研究室の教壇くらい低いのでも十分だな、と笑う彼を横目に、ああ、演題じゃなく演台ね、と呆れを乗せて吐いた息が彼の鋭い目に捕まって僅かに震えた。
 雨足は酷くなる一方で、林檎のおじさんの車はそんな灰色の視界をかき分けるように現れた。ジャケットを頭に被った彼がそのドアを開け、早く乗れよ、と促す。どうも、とその下を掻い潜って乗り込むと、癖のある暖房の香りに包まれた。続いて肩を濡らした彼が滑り込んでくる。
「冷えただろ、コーヒーでも飲んで帰ろうか」
 いいですね、と彼が身を乗り出した反動でその髪から水滴が飛ぶ。
「ちゃんと拭きなさいよ」
 ハンドタオルを手渡すと彼は、悪いな、と言って受け取り、一房ずつ包むように水を吸い取らせた。
「時雨ちゃんも、時間あるかい?」
「はい、大丈夫です」
 忙しいのは親父さんだけか、と明るく笑う林檎のおじさんの背中がやけに冷雨に似合っていた。
 今頃どこか知らない土地で知らない言語で知らない定理で知らない問題に挑んでいるであろう父の呑気さを思うと、おじさんの漂わす哀愁とのミスマッチがわたしにとってはどうにもおかしくてたまらなかったけれど。
 ほんの少し、表面上に浮き出ない言葉の奥の知り得る事実に差違を感じつつも気付かないふりをしていると、あ、あれ、喫茶店じゃないですか、という彼の言葉でおじさんの注意はそちらへ向けられ、父の話題は暗い雨に消えた。

 近隣の建物に押しつぶされる格好でなお虚勢を張る黒いそれに入店する。入ってみると意外に狭さを感じさせない店内にはぽつりぽつりとコーヒーをすする客がおり、あとは店員と思しき若い男が古いサイフォンをいじっているくらいで閑散とした雰囲気は外と大して変わらなかった。
「空気が重い」
「お前の研究室と変わんないだろ」
「そんなことないわ」
 そうか、といたずらっぽく目を光らせる彼の相手はせず、さっさと隅の席に落ち着くと、見計らったようなタイミングで先ほどの男が注文を取りに来た。
「ブラック」
 真っ先に林檎のおじさんが言い、彼も同じものをオーダーする。その後にわたしがアールグレイを頼むと彼は少し不思議そうな顔をした。
「今日はコーヒー飲まないのか」
「そういう気分じゃないのよ」
 あっそ、と言い捨てる彼の横で、おじさんが、以上で、と微笑んだ。男は余分な愛想も言葉も一切振り撒かずに形式上のやりとりをすませると、さっさと奥に引っ込んでいった。
「林檎のおじさんっていうから、アップルティーとか召し上がるんだと思ってました」
 おじさんはハハハと高らかな笑い声をあげ、ストレートだなあ、と目を細めた。
「そんなのナンセンスだわ」
 背もたれに全体重を預け、少し気取ってみる。ナンセンス。そういう外来語や漢語表現をただ響きのかっこよさだけに心を奪われてやたらと口にした時期もあった。今、わたしはそんなワーディングの似合う女でいるだろうか。
 そういえば、父と出かけるときはいつだって背伸びしていた。その行き先にいるのは綺麗に着飾った女の人か、堅物そうな学者か、腰の低い役人か。同年代の少年少女に出会うことなどなかった。この世界に生きるものの中で最も幼いのは自分だと信じてしまうほどに。ほんの数歩、家の周りを歩いてみればありきたりの生活音も、子どもたちのはしゃぎ声も耳にできたはずなのに、わたしはそれをしようともしなかった。家にこもって家中の本を片っ端から読み漁ったり父の下に集まる資料やレポートの検証をするほうがよっぽどか楽しかったから。
 立ち振る舞いも言葉遣いも、大人に好かれるやりかたを身につけることは容易かった。小さいうちは、上品な素振りをしつつときどき粗相をしてややしどろもどろになりながら丁寧に弁解してから最後にちょっと微笑めばそれですんだ。幼少期を卒業したら、少女特有の、人間として不完全で揺らぎのある曖昧且つ普遍的な全体像を示しつつ、ときどき突拍子もないことを言ったり正当な意見をぶつけたり核心をついてみたり不思議な魅力があると形容されるような目をしてみたり。おかしいとわかっていながら、おかしいことをした。
 ただ、父の隣にいて恥ずかしくない人間でありたいと願ってやってきた。普通でないと知ってやっていた、でも正しいと思っていたから確信犯だった。けれど、どこかでそれを故意犯と認める心もあった。
 今、わたしの隣に父はいないけれど、それでもわたしはいつまでも難解な言葉や凡庸でないつくりものの言動に飾り立てられた父の人形のままでいることに変わりはない気がしている。なんとなく。 いつまでもどこまでも父はわたしの後ろ盾だと。
 カチャリ。
 僅かな陶器の音で注意がテーブル上に向かう。コーヒーを置く例の男の腕越しにおじさんがコロコロと笑うのが目に入った。カップそれぞれから立ち上る湯気がそれらの温度を容易に予想させる。まだ手をつけないほうがよさそうだ。
「好きでも嫌いでもないよ」
 急に実体として耳に飛び込んできたその一言がやけに心に沁みた。思えば、林檎のおじさんはいつもそうだ。否定語と否定語の間の微妙な隙間を縫うように飄々と生きている。決して明確な言葉で自分を表現しようとはしない。
 僕の中でいつもそういうポジションにあるんだ、と微笑を浮かべ、林檎は、と紅潮した頬をさらに赤くした。 晩秋の夕暮れ、外から帰ってきたばかりの幼い子どものように楽しげに。
「いいですね」
 言い終えて、彼はクシュンと顔を皺くちゃにたたむようなくしゃみをひとつふたつした。
 コーヒーをすする手は水仕事の後のような特殊な色合いをしており、心なしか震えているように見える。
 わたしの視線に気付いたのか、それをにこりと微笑んでかわし、なんとも深い味わいですね、ともっともらしく頷いた直後に彼は軽く鼻をすすった。
「だから言ったのに」
 カップに口をつけ、まだ熱をもつアールグレイを冷ますように言葉を落とすと、何が、と彼が食ってかかってくる。
 わかってるくせに、と口の先まで出かかった言葉の文学的意味や発音、イントネーションを喉のあたりに返し、息だけをアールグレイに吹き掛けて冷ました。少しだけ飲んだそれが喉に留められた言葉の一部をまた腹の方へ押し流す。
「風邪は引き始めの処置が肝心だよ。今日は早く帰ったほうがいいね」
 せっかくだけど、と人の好い笑顔を彼に向け、林檎のおじさんはコーヒーをおいしそうに飲み干した。
 わたしも、これからおじさんの話にどっぷり浸かるつもりで残していたアールグレイを流し込む。紅茶特有の歯にまとわりつく温さが少し癪に触った。なんとも後味が悪い。口直しの水さえ無かったので鞄の中に飴のひとつやふたつくらいないかと探しつつ立ち上がり、おじさんと彼をのろのろと追う。
 お代を支払うおじさんの横をすり抜け、運良く見つけた飴をひとつ口に放り込んだ。
「ここのコーヒー、さらさらしてたぜ」
 よかったわね、と視線で告げ、わたしは店の外に出た。 雨を凌ぐのはほんの少し路地に突き出したビニールの屋根だけだったので、そこで立ち止まる。熱の気配が近づいてきて、それが彼の存在を教えてくれた。
「ちょっと小降りになったな」
 とはいえ相変わらず降り止まぬ雨。気温はどんどん下がっていくようだ。暖まったばかりの手を白い季節の冷たさが刺す。
「あっためてやろうか」
「間に合ってるわ」
 口内の小さな球体のせいでうまく呂律の回らないのがおかしかったらしく、彼はククッという乾いた笑い声を奥歯をギリリと鳴らして噛み締めた。それが案外長く続いたことに霧消に腹が立って、わたしはとりとめのない小さな怒りに任せて飴をジャツンジャツンと噛み砕いた。
「今度はコーヒーにしとけよ」
「ご親切にどうも」
 必要以上にはっきりと言い返し、荒立つ語気を無駄にしてたまるかと凍えそうな手に吹き掛けた。
「なんかさ、矛盾してるよな」
 ぽつんと投げ掛けられた言葉が妙に引っかかった。というか、曖昧すぎて必要か不必要かの分別がつけられなかったのだ。
 何が、と尋ねると、息が、と簡潔に返された。
「紅茶冷ますときも、手温めるときも、おんなじ息吐くんだなって」
「そう言われてみれば」
 そうね、と自分に聞かせるように呟く。紅茶を冷ましたのも、手を温めたのも、わたしだった。彼の言葉の中にいるのは、わたしであると気付く。それがちょっとばかり、わたしの心を温めた。何物にも依存しない彼がわたしを少しだけその思考回路に取り込んでくれたのだから。
 完全に融けて滲みて無くなった飴の後味が薄れていく中、彼の言葉がわたしの脳内でその存在感を強めていく。
「でもそういうのって相対的なものじゃないの」
 口を尖らせることがたったひとつの感情表現というかなんというか。こういう状況でこういう言葉が来てこういう感情を抱いたときに、わたしに与えられた選択肢は初めからひとつしかないように思われた。それ以外にできることなんて何ひとつ考えられなくなるのだ。否、考えようともしない。
 そう。あのときと同じ。父にあちこち連れまわされていたあの頃と。
 確かに故意犯だった。けれど、そのときはそれが精一杯で、わたしがわたしであるためのレールは最初から引かれていたのだ。わたしはそれになぞらえるように進んできただけだ。
「紅茶が息より温かくて、手が息より冷たいからでしょ」
「ほんとにそれだけか?」
 振り返るのが怖かった。今でも、怖い。わたしが正しいと信じて貫いてきた絶対的なものは、酷く曖昧で揺らぎのあるものだと気付いて。どんな危険な吊り橋を戯れながら走り抜けてきたのだろう、と思った。わたしがしていた目隠しは見苦しいものや不都合なものをわたしから見えなくしていた。少しだけ見えたほんとうの世界は、未知とみなして。わからないのではない、知らないだけなのだと。
「知らないわ」 
 すべて投げ出してしまいたい気分だった。深い眠りに落ちて、今日のことなどすべて忘れてしまえたらどんなに楽だろう。でもそれを許さない緊迫感がこの雨にはあった。
 彼の口から、諦めや譲歩の言葉が出てくることを期待しつつ、わたしはただぼんやりと霞む世界の端で呼吸を繰り返していた。

 

 

秋が往けば

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