マンションの五階にある自宅を見上げると、何故かほんのりと明かりが点っていた。最近新調したばかりの萌黄色のカーテンの向こうで、何かが揺らめいている。誰か来たのだろうか、と呑気に考えながら、玄関のセキュリティシステムを通過し、惰性的にエレベーターに乗り込む。左手に食い込む紙袋の持ち手が今にも破れそうなのを気にしつつ、田舎の父か、都内の姉か、警察か、探偵か、同量か、泥棒か、とにかくあらゆる可能性を検証しつつ、いったん、共通通路となっている六階まで上がり、そこから自宅のドアの前まで歩いた。右肩から斜めに提げたポーチが歩みを進める度にカタンカタンとその中身を鳴らす。
 ドアノブに手を掛け、何のためらいもなく捻る。鍵は閉まっていなかった。出かけに、施錠したのは確かだが、部屋の明かりがついていることから、その理由は知れていたような気がしたし、別段不思議に思うことはなかった。
 リビングにつながるガラスのはめ込まれたドアを開けるなり、暖房特有のもわっとした熱気が押し寄せる。全身がびびっと感電した後に、男がひとり静かに何かを飲んでいるのに気が付いた。
「いらっしゃい」
 鞄をソファに投げ捨て、マグカップに朝の残りのコーヒーを注ぐ。男は口の周りに白い液体をつけたまま、おかえり、と笑った。
「もうそんな季節か」
 僕がさらりと言うと、彼は、お前はほんとうに浮世離れしたやつだな、とまた笑った。そして、帰りに家族連れとかカップルとか見なかったのか、と続け、イルミネーションだってあっただろう、と付け足す。
 彼は昨年とまったく同じ格好をしていた。黒いタートルネックのシャツに赤いズボン。椅子に掛けられた外套やら襟巻やらはすべて彼のものだ。
「あんまり興味ないんだ」
 温く苦いコーヒーの冷めた香りに半ば興醒めしつつ、カップに鼻を埋めるようにして言った。でろでろとした感触が喉をうまく通らず、飲み干すには耐えがたい不味さで、温め直すには少量過ぎた。僕はそれを流しに捨てる。
「全然、だろ」
 クククと乾いた笑いを床に棄て、彼は牛乳と思しき液体を飲み干し、ぺろりと口周りをなめた。
「悪いな、せっかく来てもらったのに」
「心にもないくせに」
「ばれたか」
「ばればれだ」
 ケーキの一切れくらい用意しとけよ、と悪態をつきつつ、男はソファに身体を沈めた。俺はお前のことなら大抵はわかってるつもりだよ、と足を組む。
 僕は男が紙袋を潰す前にそれを取り上げ、その尊大な態度に眉をひそめつつ、何でもするよ、と返した。
「あんたが名前を教えてくれたら、な」
 僕は肩をすくめながら男のカップを片付ける。
「だから、サンタクロースだって言ってんだろ」
「誰が信じるかよ」
「お前が信じるしか方法はないぞ」
 どっちみち、俺が存在していることには変わりないんだ、と男は足を組みかえる。
「自分を疑うのって結構辛いぜ」
「もともと認めてないよ」
「つれないこと言うなよ」
 言葉の割にはどこか楽しげだ。男はポケットからクッキーを二枚取り出した。その一枚ずつに穴が開けてあり、深緑に金のラインの入ったリボンが通してある。
「今年もこれで乾杯だ」
「訳わかんないし」
「それでいいんだよ」
 その代わり、来年は何か用意しとけよ、と男は黒い髪をさっと掻き上げて口を歪ませた。毎年この繰り返しなのだ。街が浮かれだす時期になると、こいつが家にやって来る。まるで外界のしわ寄せがやってくるように、世間から乖離されたはずの僕のもとに。
 きっと僕は、変わっているね、と称されることに慣れ過ぎている。その自覚はある。それなりの客観性を持ったうえであまり人に好かれないような生活を続けてきている。どうやったら誰かのそばにいられるのか、知っていないというと嘘になる。しかしその術を実行は出来ずにいた。僕は我慢というものが足りず、忍耐と言う言葉を脳内に持っていなかった。そして、出逢いを知らない。そして、離別を心から愛した。さよなら、というのが大好きだった。愛おしい人に、側にいたい誰かに、別れを告げることが唯一の僕にできる感情表現であり、それだけが僕の欲望を満たし、心を豊かにさせてきたはずだった。
 しかし心の底から本当の別離を望んでいた訳ではない。ただそれを言いたかっただけなのだ。言葉の欺瞞に浸り、現実との虚構性に身を委ねたかった。そして、素直になれぬ人間を笑い、その裏で際限なく愛でていたかった。人間とはそういうものなのだと認識した上で、馴れあいでも構わないから、絶対的な関係を築いていきたかったのだ。
 誰にも理解されぬ僕のさよならを受け止めてくれたのはこの男が最初だった。そして、きっと最後になり得るのだと思う。
「来年も来るのか」
「それはどうだろう」
 とぼけてみせる表情が僕の心に少しだけ温もりを与える。理由は知らないが、事実、胸のあたりの力が抜けてほっと緩んだ気がした。
「とりあえず、さよならだな」
「そういうことになるな」
 クッキーのかすを口の端につけたまま、少年のようなあどけない笑顔を浮かべた男は、白い羽毛の装飾が施された赤いコートを羽織り、白い靴下でぺたぺたとベランダまで歩いて行き、一度だけ振り返って、ごちそーさん、と手を合わせた。そして窓を開け、いそいそとブーツに足を入れる。
「結局、あんたは何をしに来たんだ」
「目的はない」
 こちらをちらりとも見ずに男はきっぱりと言い切り、立ち上がった。
「ただ来たんだ。だから次があるとも限らない」
 そうか、と返すと、男はそれを落胆と取ったのか、心配するなよ、と見当違いの答えをよこした。
「元気でな」
「ああ」
 それは僕と男の最後の会話になった。僕が瞬きをする間に男は夜闇に消えた。遠くでめまぐるしく色を変えるネオンも、明日になれば片付けられてしまうのかと思うと少し空しさが生まれた。
 会話。行動。繰り返されるものにも、一度きりのものにも、すべてに意味があったとしてもなかったとしても、僕は。
 

 

 

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