またお話したいです、と笑顔をつくって先輩を見送り、校門で足を止めた。顔の筋肉に込めた力をすっと抜くと、さっきまでの会話はすべて他人事のように思われた。辺りはもう暗くなりかけていて、わたしの冷めた表情は誰にも見つからないだろう、と思うと、作り笑顔も何の意味もなさないと気付いて何だか余計に空しくなった。
 のろのろと歩いてゆく先輩は目の前のバス停で待つ男子生徒に声を掛け、親しげに話しはじめた。そしてちょうど滑り込んできたバスに乗り込む。先輩は終始どこか浮かれた様子だった。黒くなりつつある世界の中で動く輪郭線が、その気分の高揚を顕著に表している。それはいい先輩ではなく、本当に、純粋に、女の横顔の曲線だった。男子生徒が一度だけ、ぼんやりとバスを見ていたわたしを振り返ったが、先輩は気にも留めていない様子だった。
 走り去るバスを目で追いながら、最後に見たのはあの男子の顔だったなあ、とふと考えた。先輩の笑顔であるべきなんだろうな、と加えて思う。
 きっと先輩はわたしに綺麗な笑顔を向けてくれたのだと思う。しかしそれを見ないようにしたのは他の誰でもなく、わたしだった。わたしが、目を瞑ったから。
 目を細めて笑うということが、いつしかわたしの癖になっていた。
 弾む会話を止めたくなくて、楽しそうに話す相手の流れを遮りたくなくて。上手に笑えてないことなんて最初からわかっていたけど、目を細めて頬を持ち上げて、目の前の世界を優しい闇で覆ってしまえばわたしはもう幸せの中にいた。記憶に残るのは、目を閉じる寸前の最後まで美しい言葉であり、柔らかな表情であり、温かい空気感だけ。
 故に話のテンポは狂う。相槌も上手くはまらない。けれど、この子はこういう笑いかたをするのだ、こういう間の取りかたをするのだ、という意識を相手の虚心に植え付けてしまえば、後は簡単だった。
 そうしてわたしは自分の笑顔を思い出せなくなった。それらしい作り物だけを賄えるようになるばかりで、変化も誤差もない、いつだって同じ機械的なものだけを身に付けた。今まで感覚的にできていたことに一度理論を与えると、もう元の自然な引き出しかたには戻れない。それが大人になるということだ、と自分に言い聞かせて、もう理解したものとして、無理やり胸に落とし込んできた。とにかく怪訝そうな表情は見たくなかった。自分の言動が、不安や訝りを生みだしたのだと思うと悪寒が走る。だから見なければいい。万が一、ため息や目配せを感じても、視覚で捉えなければわたしは真として認めないから。
 誰を待つのでもなく、ただ立ち尽くしていた。暮れなずむ気配も見せず、空は急激に彩度を落としていく。追い越していく生徒たちの背中には皆、羽根が生えているように見えた。軽やかに歩める、高らかに笑える、幸せになれる清廉な羽根が。
 自分の背中にそっと手を当ててみたけれど、わたしのそこには何もなかった。ただ硬い骨が触っただけだった。見上げた空は、吸い込まれそうな闇だったけれど、穢れたわたしを掬いあげてはくれなかった。
 冬の風がひゅうと吹きこんで、髪を後ろへさらっていく。目に刺さるような冷たさが涙を呼んだ。目尻に水滴が溜まる。髪を撫でつけながらわたしは、ただただ、心の扉を開けっぱなしにしていくすべての流れを受け止めていた。
「久野さん」
 風に逆らわずに振り返ると、斜めがけの鞄を肩にかけた男子生徒が不思議そうにわたしを見ているのがわかった。彼を見とめてから、はあい、と遅れて返事をした。桃井くんだ。
「なに、泣いてんの」
「あー……うん」
 風が強くて、と目を擦ると、桃井くんは、そっかそっかと頬を緩めた。
「それ、ちゃんと巻いたら」
 桃井くんの指の先にはわたしのマフラーがあった。だらりと垂れ下がったそれを持ち上げると、少しだけ、心がほっと温かくなった気がした。
「誰か待ってる?」
「そんな感じ」
「ふうん」
「ふうんってなに」
「いや、別に」
 空中に頬をついて少し考え込むような素振りをしたかと思うと、桃井くんは、じゃあ、とさっさと歩いていく。またね、と遅れて返すと、彼はさっと片手を上げた。
 桃井くんの深紅のマフラーがわたしの視界の中でやけに異彩を放っていた。それをまたぼんやりと眺めていると、彼がいきなり振り向いて、よい週末を、とわたしに会釈した。
「あ、またね!」
 突然の言葉に対応しきれず不完全な笑顔を向けてしまったが、彼にとってはどうでもよいことらしく、桃井くんはちょっと宙に浮いているような特徴的な歩き方で帰途を進む。不自然に持ち上げられた頬は自分の意志では下りてこず、目は三日月形に歪んでいるはずだ。鏡で見なくてもわかる、作りの悪い表情を顔に張り付けたまま、わたしは彼の背中に流れるマフラーを見つめていた。
 桃井くんの姿が曲がり角に消えても、廻る風に目を閉じると、浮かんでくるのはあの色合い。モノクロウムの些細なコントラストに色の違いや物体の存在の確かさを委ねようとする空の下、何故か残るのは一瞬のきらめきであり、あの深紅であり。
 静かで、それでいて爆発的なあの一瞬の煌めきが、わたしをリセットした。幼くて素直だった頃にふっと戻れたような優しい思いがした。その一方で、また。新しいものを引っ張って来てしまったようだ。
 いつだって宇宙に奇跡を起こすのは、あの情熱的な深紅なのだ。 

 

 

フレア (We're 60 trillion stars in cosmos. )

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