いつも、誰か――そう、決まった相手ではなく不特定の人間と一緒に下る駅までの坂。相手は部活の友達であったり先輩であったり後輩であったり級友であったりし、その都度違う表情で、その都度違う話をする。
 待ち合わせる人のごった返す校門をすり抜けて、わたしはひとり、歩みを進めていた。特別これといって考えることもなく、なんとなく、教室からここまでの慣例化した行動を反芻する。
 午後六時を知らせるチャイムをひとりぼっちの教室で聞き、鞄に用具を詰め、電気を消し、廊下に出て昇降口へと向かった。会話もなければ感動もない。乾いた靴音が冷徹に、しかしどこか怠慢を含む響きを瞬間的に残すだけ。
 靴を履き替えたところでずり落ちそうになった鞄を肩に掛け直し、夜を誘う風に吹かれた前髪を撫でつける。そしてまた歩く。何物にも縛られず、依存せず。
 抱えるのは、ゼロの感情。背負うのは、ゼロの義務。この身さえ、今なら消えてしまってもおかしくないと感じるくらいに何もないわたし。
 けれど、すべてをゼロと解釈するわたしは、今にも溢れ出しそうな想いを胸中に潜めたわたしの虚勢を張る姿に過ぎなかった。ゼロだと決めつける時点で、その心にはなんらかの数値がそこには存在しているのである。
 パラドックス。本来崇高であるはずの言葉を心の中でやや自嘲的に呟いた。
「ばーか」
 対象もなく、目的もなく、当然意味などあるはずもない。でも、口から漏れた言葉はわたしそのものだった。
「忘れちゃえ」
 全部、全部。重たいものを捨てて、冷たいものを脱いで、堅いものを置いて、わたしはわたしになる。軽いものだって温かいものだって脆いものだって、その概念がある自体で真逆の言葉を真逆の意味で含んでいる。軽いといったって、重さがあるから軽いんだ。温かいものだって、温度があるから温かいんだ。それは一種の冷たさである。堅いものだって、堅いということを知っているから堅いんだ。堅さという程度が限りなく低くなって、けれど無くなりはせず、そうして脆さが生まれるんだ。
 だから、ゼロになるために、ほんとうに無になるために、気持ちを入れておく容器も、何かをはかる定規も、その質を調べる器材も、何もかも無くして、空っぽにしてしまいたい。忘れたい。さよならしたい。
 わたしにそう思わせるのは、脳裏に焼き付いてはなれない、あの背中。
 拒絶するような振りして、すべてを受け入れてくれる優しい背中。わたしでさえ受け止めてくれる。外界のどんなエネルギーに惑わされたわたしがぶつかってもその衝撃を和らげてくれる。
 そしてそれはいつもこちらを向いていたのに、今日に限ってあちらを向いてしまったのだ。
 結局、忘れることなんてできずに、そのことばかり考えてしまうわたしが居て、それを否定し続けるのも野暮な話だと思い、改札に定期を通しながら、この勝手気ままな気持ちの流れにすべてを委ねることに決めた。
 身勝手な制約から身勝手に解放された心は突然舞い込んだ自由に戸惑うことなく、すぐにその羽を広げてしまう。もっと高く、もっと遠く、と私利私欲の追求に余念がない。我ながら薄情な心だと思った。
 電車に乗ってしまうと、車体の加速と共に緩やかな眠けが襲ってきた。心地良く揺れる海に身を沈めるように、少しだけ目を閉じた。断続的に心の底から浮かんでくる気持ちの泡がひとつずつ弾けては消えていく気がした。けれどそれは一回きりの命の泡でなく、消えてしまってもまた次の姿を得ようとする泡。次の答えを求めようとする泡。
 離れようとした問いの中に、わたしの希求する答えがあるような気がした。
 
 試験が近いので、部活動は基本的に行われていない。わたしの所属部活も例に漏れず、三日前から練習をしていない。その分、わたしは教室で課題をこなすのが常だった。
 試験は近い。けれど、まだ四日は残されている。なのでまだそこまで切羽詰まった状態ではなく、わたしのように居残りをしていく生徒はごく僅かだった。帰りのホームルームが終わった瞬間に遊びの約束を取り付ける男子生徒の声を聞き流し、足早に出ていく試合を間近に控えた運動部員の背中を見送り、他人の恋愛沙汰を取り上げて騒ぐ女子生徒の声を意識のうちから抹消して十分間耐えれば、わたしの視界に残った背中はたったの三つ。空っぽになった机が窓から斜めに差し込む夕陽を受けて素朴な輝きを見せていた。
 時計が四時を示す。数学の問題集から目を離して軽く伸びをするついでに机に向かう背中を盗み見た。
 怒り肩で角ばったのがひとつ。小田くん。たぶん漢文を読み解いている。既に成熟しきった声が小さく、格式ばった言葉たちを呟く。
 ぴんと伸びた背筋から気品と教養の高さがうかがえるのがひとつ。浩美ちゃん。凛とした背中の横から覗く参考書の色からして、英文法を勉強しているらしい。
 最後に、ゆるやかなカーブを描くのがひとつ。佐久間くん。彼は何をやっているのだろう。後ろ姿からはよくわからないけど。気にならないことも、ない。
 それからわたし。手も足も出ない問題のページを広げ、自分のあまりの無力さに撃沈して完全に放棄してしまったところ。わかんない、わかんない、と繰り返し呟いても、たとえ叫んだとしても、わたしの頭の中はちっとも整理されないので、せめて文字面だけでも、と何度も追っておく。徐々に訪れてきたのは睡魔。まどろみに落ちていくことに抵抗感は生まれなかった。
「じゃあ、ナカマオちゃん、あたし帰るね」
 突如耳に届いた声。現実味を帯びて、意味を伴って、わたしの思考回路を順番に辿る。教室を出て行こうとする浩美ちゃんに言葉を返す余裕もなく、反射的に飛び出したバイバイに後から心の中であれもこれもと意味を付け加えた。
 仲谷眞緒のヤだけを抜いて、ナカマオちゃん。あまり浸透していない呼び名と、それを織り成す深みのある声、そして人口密度の低い教室に残る微かな響きがなんだか照れくさかった。この声を、彼も聞いているのだと思うと。
 小田くんが、略したうちに入らないな、と笑う。それがわたしの呼び名のことだと気付くまでに少し時間が掛かった。数学が得意とは言えないわたしは、集中しきらないと解いていけない。耳を滑った小田くんの言葉が公式を捻くり回したあられもない数字の陳列の輝きを失わせた。つまり、やる気が完全に消えた。
「仲谷さんっておもしろいよね」
 手当たり次第にかき回した式を消しながら、なんで、と明るく言葉を返す。顔を上げると、小田くんが身体を捻ってこっちを見ているのと、それからいまだ柔らかく曲がったままの背中が目に入った。相も変わらず綺麗な、流れるような曲線。こっちを見てほしいけど、それ以上に向こうを見たままでいてほしい。
「なんかわかんないけど」
「呼びかたのことなら、わたしじゃなくて浩美ちゃんに言ってよ」
「まあ、そうなんだけどね」
 やっぱりこの人間あってあの呼び名ありって感じじゃん、とくつくつと肩を震わせる小田くん。身体を完全にこちらに向けているあたり、勉強からは少し離れるつもりらしい。かくいうわたしもさっきの問題は完全に放棄した。
「小田くんこそなかなか変わってるじゃん」
「僕はそんなつもりはないけどね」
「うそ」
「いや、だからね、うん」
 言葉を飲み込んだ小田くんに目を細めると、なにその微笑み、と毒針を頬に刺された。頬杖を突いて視線を反らす。
「それが故意だったら逆に怖いって」
 割って入ってきた言葉の視点を見遣ると、背中はもうなかった。代わりに存在したのは柔和な面立ちの青年の困ったような笑顔。
「待て、佐久間。それってどういう意味だ」
「そのまんまだよ」
 ていうかなんだよ、その地方局のドラマみたいなセリフ、とからからと笑う佐久間くんにつられて自然と口角が持ち上がった。
「笑ってるけど、仲谷さんもだからね」
「え、なにが」
 佐久間くんの尖った視線の矛先が急にわたしに向く。温厚な顔立ちと鋭い目の不釣り合いがわたしの笑いを誘った。
「仲谷さんもときどき不思議なときがある」
「そんなことないと思うけどな」
「要するに本人は無自覚ってことだろ」
 小田くんが話と、それから荷物もまとめ出したので慣習的に時計を見る。四時半を回っていた。佐久間くんもなんとなく机に向き直る。
「僕、今から図書館行くから、じゃあね」
 話の風呂敷を中途半端に畳んで、彼は足早に教室を出ていった。戸惑うわたしと対照的に、佐久間くんは、またな、と顔さえ向けずに言った。
 廊下の向こうの方から、遅いぞ小田、と太い声が聞こえてきた。誰かと約束していたのだろうか、と勝手に推測する。たぶん、そうだろうな、と自分に返答してまた先ほどの問題に戻った。ずれた話題とそれた意識がふと数学の公式をひとつ連れて帰ってきてくれたらしい。参考書の該当ページを探し、応用できないか検証してみることにする。
「仲谷さんはまだ帰んないの」
 俯いた頭に届いた声に、うん、と頷くと、そっか、とごくごく自然な響きが返ってきた。
「おうちに帰っても勉強できないから」
「集中できないとか?」
「ううん、疲れて寝ちゃうの」
「そうなんだ」
 何故か立ち上がって窓に歩み寄り、窓枠に手をついた佐久間くんをぼんやりと眺めた。あ、小田、とささやかな驚嘆が漏れる。
「佐久間くんは」
「あー、俺?」
「うん」
「五時になんないと塾が開かないから」
「あ、なるほどね」
 じゃああともうちょっとだね、と差し障りの無さそうなことを口にすると、佐久間くんは、でもなんかもう疲れた、と伸びをした。
「仲谷さん今何やってるの」
「あ、えっとね、数学……」
 重心をふらふらと漂わせながら身体を左右に揺り動かす独特の歩き方で、佐久間くんがわたしの机に近付いてくる。不意な行動にちょっと動揺してしまい、使い古されていない参考書が常態に戻ろうと腕の重しを振り切ってページを閉じた。
「ちょっと見せて」
「え、やだ」
「いいじゃん」
 机に伏せた腕の下からするりと問題集を抜き取られ、ぱらぱらとめくられる。心の奥底を覗かれているような気がして、全身がびくりと震えた。そしてじわじわと、頭のてっぺんからつま先までを甘い痺れが伝っていく。
「まだ、全然終わってないし」
 無言が怖い。鋭い双眸がわたしの拙い字を追い掛けて、真一文字に結ばれた唇が冷たい色彩を放つ。
「理解できてないし」
 静まり返った教室に響く唯一の音は、佐久間くんの指がページを繰る音。意外と骨張っている手がやけに印象的に映った。
 耳に届く音は僅かなものなのに、心の中で鳴り響くのは激しくなるばかりの鼓動、けたたましいほどのサイレン、それから、声にならない叫び。何が何だかもう分別がつかないほどの大騒ぎで、荒れ狂ってしまっている。
「ほんと、だめだめで」
「でも、俺のよりちゃんとやってあるよ」
 わたしの言葉を逆の意味で引き継いで、初めて、佐久間くんが穏やかな笑顔をページに刻んだ。
「字、きれい」
 その一言でいっきに体温が上がる。そんなことないよ、と口の中でもごもごと言い、わたしは佐久間くんの手から問題集を取り返す。案外にも容易く返ってきたことを少し残念に思う自分の傲慢さが恨めしい。もうちょっと、とか粘ってくれたらいいのに。
「ありがとう」
 対象とか理由とかほんとは訊きたかったけど訊けないまま、だけど、訊かなくてもわかるような気がして、ふたりの間で共有された感覚を信じたくて、こちらこそ、ありがとう、とできるかぎりの丸い笑顔を佐久間くんに向けてみせた。
「ん、もうすぐ五時だ」
 既にほとんど片付いた状態だったけれど、佐久間くんは机の中やら横やらに忘れ物がないかを念入りに確認し、スポーツバッグを肩に掛けた。
「じゃあね、仲谷さん」
「またね」
 廊下に消えていく彼の背中はやっぱり猫背だった。けれど、それは何よりも清廉で、わたしに優しかった。遠いと思っていたけれど、今日、少しだけ近くに居られた気がした。
 ふと、窓外を見遣る。空は徐々に彩度を落とし始めていた。
 
 降車駅のひとつ手前の駅名が告げられ、目が覚めた。どうやら眠ってしまっていたらしい。乗り過ごしてしまわなかったことだけがせめてもの救いだと思った。
 本能的によみがえったのは捨てようとしていた想い。気付かない振りをしようとした本音。
 やっぱりわたし、佐久間くんのこと……。
 けれどその先へ続かない。好きでないと言いきるにはもったいなくて、愛しているというには少し軽過ぎた。もしかしたら、続きを描くのが怖いのかもしれない。わたしは。
 夢か。それとも現実か。
 すべて実際に起こったことだった。けれど、それは確かに夢だった。
 佐久間くんが帰ってしまってから、勉強に集中できるはずがなかった。脳内でくりかえし再生されるやりとり、交わした言葉のすべてが他にはない煌めきを帯びて、想いを彩る。募るばかりの慕情。
 何度も何度も思い返してみたけれど、浮かんでくるのはあの背中だった。言葉の続きを、答えを探そうとしても、すべてあのビジョンに収束してしまう。
 もしかしたら、あれが正答なのだろうか、とおぼろげながらに考え始めたところでわたしの降りる駅に到着した。
 

 

 

列車

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