買ったばかりのフレアスカートの裾を風が面白がるように揺らしていく。まだ少しだけ肌寒い空気と、新しい服の落ち着かない感じと、それからちょっとばかりの緊張感が震わせる指先でインターフォンを押す。
 あたしの気持ちに反してやけに電子音が軽薄に響いた。続いて、かったるそうな声。
「はーい」
「時田です」
「あ、碧ちゃん?」
 ちょっと待ってて、と機械を通した声に心をくすぐられるのをごまかすつもりで肩の鞄を掛け直し、ドアが開くのを待った。
 程よい重量感の足音が鳴った後、履き物を換える音。そして、ガチャリ。外向きに開けたドアを肩で押さえながら、Tシャツにカーゴパンツというラフな出で立ちで隼人先輩が、いらっしゃい、と微笑む。
「旺史郎、まだ帰って来てないんだよね」
「そうですか」
「ま、とりあえず上がんなよ」
 隼人先輩の親指がくいっと家の中を指す。おじゃまします、と小さく言って先輩の胸の前を横切るときに、旺史郎とはちょっと違う香りが鼻を掠めた。履き慣らしたスニーカーを隅のほうに揃えて脱ぎ、壁に張り付いて待っていると、リビング、わかるでしょ、と後ろから声が飛んでくる。
 ガラスのはめ込まれたドアを静かに開けると、旺史郎の家の匂いがあたしを包んだ。旺史郎はいない、と隼人先輩は言った。けれど、あたしはそのことを知っていた。ちゃんと知ってたから、今、来たんだ。
「そこ、座ってたら」
 グラスがカラコロと鳴る音を振り返ると、ソファを顎で示される。
「コーヒー飲めるっけ」
「あんまりです」
 普段は鋭利な輝きを持つ相貌をちょっと緩めて、先輩は首を傾げる。
「じゃあ紅茶にしとく?」
「あの、先輩、どうぞお構いなく」
 掌をぶんぶん振って遠慮をアピールしたつもりが、逆にオーバーな反応として捉えられてしまう。
「碧ちゃんね、俺に気遣わなくていいから」
 困ったように眉毛を曲げて笑う先輩の顔を見たら、なんだか会話の内容はどうでもいいような気がして、先輩と話しているという事実が何よりも重要であるかのように感じられた。
「そういう気負い、旺史郎に対してはないでしょ」
「いや、そんなつもりじゃなくて」
「ほんと、昔から仲良いよね」
 俺妬いちゃうよ、と冗談めかして言いながら、先輩がお茶の入ったグラスを目の前のローテーブルに置いた。コトリ。同時に、ガラスの破片が心臓をちくりと刺す。
 いただきます、とグラスを手に取り、先輩を視界から除外した。それでもあたしのいちいちの所作を見張る視線が熱い。温度は発する側の問題じゃなくて、受け取る側の問題なんだ。隼人先輩は、なんとも思ってない。考えて、考えて、想いだけがぐるぐる頭の中をめぐって、結局何も変えられないのはあたしだけ。
「今日、なんかちゃんとしてるね」
 隼人先輩はお茶を飲みながらあたしのスカートを指す。
「そういう訳じゃないですよ」
「それ、似合ってる」
 ソファの形と重力に従って流れをつくるフレアスカートは、喜びを隠せなくて、風もないのにふわりと揺れた。ありがとうございます、俯いてお礼を言う。火照る頬を見られたくない。隼人先輩だけには。
 ああ、この人は、どこまであたしのことをぐちゃぐちゃにしたいんだろう。
 形を崩していく氷と一緒にあたしの中の大事なものが全部融け出てしまいそうなくらい、それくらい――なんだろう。辛い。いや、辛くない。寂しい。そんなことない。悲しくもない。侘しくもない。この感情はなんだろう。もどかしい。けれど、これを味わうのは初めてじゃない。とにかく混沌としていて、収拾がつかなくて、あたしがあたしでなくなっちゃうような綺麗じゃない感情。
「それにスニーカー履いてくるとこも、碧ちゃんらしいよ」
「手抜いたの、ばれちゃいましたか」
「いや、あれはあれでいいだろ」
 まじめくさっていうのが、軽い。先輩は無責任だ。自分の言葉の重みを分かってない。
「ほんと、可愛がり甲斐があるよね」
 あたしが返事をやめたのなんて気にも留めない様子で、隼人先輩はぺらぺらと続ける。それは加速しか知らない。マイナスの進化を許さないで、あたしをぎりぎりまで追いつめて、試す。
「碧ちゃんが家族になったら楽しそうだよ」
 隼人先輩の冗談は、あたしにとっての願望。家族、じゃなくて、妹、でしょ。
 じゃあお嫁さんにしてください。そう言ったら、先輩はなんていうだろうか。旺史郎に怒られるよ、といたずらっぽく笑うだろうか。そしたら、あたしはなんて返せばいい? それでもいいです? それとも、明るく笑い飛ばす? もしくは、勇気を振り絞って、本気なんです、と伝えるか。
 決断する間もなく、というのを言い訳にして無力なあたしは、やだなあ、と目を細める。そして、冗談ですよ、と口角を吊り上げるんだ、きっと。何も変えないのは、変えたくないんじゃなくて、変えられないから。

 まもなくバタバタと騒がしい足音をさせながら旺史郎が帰って来て、兄貴、また碧で遊んでたの、と脹れた。
「遊んでなんかないよ」
 旺史郎の言葉をひらりとかわした先輩は、対等にお話、ね、と同意を求めてあたしに視線を送ってくる。
「はい」
 そう笑むあたしは何を肯定したのか。現実感のない重量で紡いだ言葉は窓の外に吸い込まれるようにして消え、あたしは旺史郎にとびっきりの笑顔を見せてその場をやり過ごした。
「ま、邪魔者は消えるから」
 ごゆっくり、と柔らかな声を残し、隼人先輩はリビングを出ていった。その背中が見えなくなるところまでじっと見ていたかったけれど、あんまりにもわざとらしいので慎むことにして、冷蔵庫を開ける旺史郎に意図的に視線を集中させた。
「帰ってくるの遅くてごめんな」
「あたしこそ、早く来すぎちゃって」
 脱力。言葉を選ぶ作業が必要でなくなった今、あたしは頭に浮かぶことをさっさと音声に変換する。しかも、嘘が混じってる。旺史郎はこんなにまっすぐなのに。
「塾だったんでしょ、長引いたの?」
「いや、ちょっと寄るところがあってさ」
 お茶を流しこみながらテーブルの上の箱を指す。その仕草に既視感を覚えて思わず頬が緩む。声を上げるのをこらえながら、何それ、と尋ねた。
「何って、ケーキ」
 ほんとに、と訊くと旺史郎は、碧が来るなら買ってこい、って兄貴がうるさかったんだよ、と肩をすくめてみせた。日常に熔け込む普遍的な彼の動作のひとつひとつがあたしの安心材料になってくれる。
「おおかた自分が食べたかっただけだろ」
 違う。きっとあたしのためだ。だって今、旺史郎がそう言ったじゃないか。あたしが来るから、って。だから買いに行かされたって。隼人先輩があたしにしてくれた親切が、心尽くしが、嬉しい。そう思いたくて、たとえ先輩の気まぐれだったとしても、現実に起こったことならば何だってあたしは前向きに捉えてしまう。
「自転車だったから崩れたかも」
 今から食べよ、と鼻歌交じりに食器やら箱やらを持ってきてくれる額に汗が光る。あたしの前のローテーブルにそれらを並べる彼の視線が、ケーキを見て、食器を見て、フォークを見て、それからあたしを見て、あたしのスカートを見て、ちょっと意外そうな顔をした。
「ありがとう」
 口ではそう言ったけれど、心の中では、ごめんね、と言ったつもりだった。
「碧が喜んでくれてよかった」
 そうやって不器用に笑う旺史郎。隼人先輩みたいに整ってはいない、くしゃりとした笑顔はどこまでもあたしに優しかった。
 どんなあたしも包んでくれる手が箱を開けてケーキを取り出して見せ、あたしの本音を打ち明けても諌めることも咎めることもしないであろう唇が、どれがいい、と訊いた。ショートケーキと、タルトと、チーズケーキが銀紙の上にちょこんと座っている。
「ショートケーキ」
 同じ唇であたしはまた嘘をつく。旺史郎が好き。隼人先輩が好き。世界があたしとどちらかひとりだけだったらそのひとりと幸せになりたいけれど、生憎この世はもっと複雑だ。
「じゃあ俺、タルト」
 旺史郎が嫌いだと自分に言い聞かせて隼人先輩を追い掛けようとする自分も、隼人先輩が嫌いだと信じ込んで旺史郎と落ち着こうとする自分も、両方自分。遠いから恋しいのかもしれない。近いから愛しいのかもしれない。だけど、ふたりとも好きだ。その気持ちは質も量も違う。だから比べようがない。
 ひとつの好きという感情を正しいものとしたら、もうひとつは逆の意味を持ってしまう。それくらいに違うもの。差違があることはわかってる。
「いただきます」
 右手で旺史郎の優しさを受け止めるようにフォークをとり、左手で先輩の言葉を握り潰すみたいにスカートに皺をつくった。
 なのにあたしは、どちらも好きだと言いきる勇気がない。
 そのくせ、ほんとに心の底からいつも気持ちを向けているほうから目をそむけている。
 そうやって気持ちを曖昧にしたまま、関係を壊さないまま。
「おいしい」
 つくった笑顔も、こぼれる笑顔も、あたしにとっては同じ表情だから。
 

 

 

とにもかくにもでした  (title by 微糖様)

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