少し広くなったような気がした背中が負う侘しさにも似た静かな雰囲気は変わらず、あの時と同じ、肩をすくめるようにして首をくきりと右へ倒す仕草に連れられるようにしてわたしの想いは過去へと時を遡る。
 
 久々に訪れた実家で思いの外長居をしてしまったので、そこで過ごしたゆったりとした時間から一転し、いくばくかの焦燥感に蝕まれながら車を走らせていた。何故か気に障ったので音楽も掛けず、わたしは窓を開け放して静かに故郷の夜風に吹かれる。おみやげにと持たされた野菜やら漬物やらの入った紙袋だけが後部座席でガサガサと騒がしい。
 目についたコンビニエンスストアの駐車場に車を入れ、財布の入った鞄を掴んで店内に身を滑り込ませた。軽快な機械音に迎えられたわたしに、若い男性店員がやや気だるげに、いらっしゃいませ、と言う。彼の黒髪がなんとなく浮いて見えた。午後十一時を回ったコンビニエンスストアは煌々と光る照明のせいで逆に独特の暗さを帯びていた。かつて田んぼばかりだったわたしの実家周辺も都会の明るさに侵食されつつある。
 目当てのものをかごに入れたところで、ありがとうございました、と先ほどの声が言った。反射的にそちらを見遣ると、中年男性が店外へ出ていくところだった。彼が夜闇に紛れるのを見届けた視界にわたしの車がぽつんと映り込む。これから自宅までの距離と時間を瞬間的に計算して、眠気覚ましにコーヒーか何かを買うことにした。
 店の奥にずらっと並ぶ飲み物を端から順番に見ていったが、どれも似たような表情で整然と並んでいて何か訴えてくるものがあるはずもなく、特別気に入ったものがある訳でもないわたしはただただ目を次へ次へと移動させるだけだった。果汁ジュース、紅茶、天然水、スポーツドリンク。眩し過ぎるライトが棚の表面のガラスを均一に照らして、ボトルの凹凸には何の陰影ももたらさない。絵画を見ているようでさえあった。早く車に戻らなければならないのに、その光景から目が話せなかった。
 お客はわたしひとり。それから店員がひとり。しかし店内の人間はふたりでなく、ひとりとひとりだ。気を遣いあう訳でもなく心を馳せる訳でもなく、たまたまひとつの四角い箱の中に放り込まれたというだけ。
 そしてまたそこにひとり加わる。店員は、あ、こんばんは、と言ったきり何も言わなかった。生まれ育った田舎の夜に限りなく近い静寂を求めたわたしは心のどこかでひとりを楽しんでいたので、特別興味は湧かず、振り返ることはあえてしなかった。いや、もうひとりの登場はそれをさせないくらいにはとても自然なことであり、懐かしさが一瞬香ったような気さえした。ほどなくして店内を流れる音楽が流行の派手なポップスから割かし落ち着いたものへと変わる。その響きは断続的に鳴る虫の声に似た静けさがあり、なんとなく心にすっと入ってくるものがあった。その音楽の流れに誘われるようにしてわたしは止めていた足をまた動かした。
 店内のちょうど角になったところで関係者以外立ち入り禁止と表示のある扉で商品棚が途切れる。方向を変えてなお続く商品棚、デザート売り場で立ち止まった。本来華やかなはずのこの場所も時刻も関係してか品揃えはかなり悪く、棚の底面にあたる白いところが空しさを強調する。
 でっぷりとふくらんだシュークリームの皮は無機質な光のせいでいやに乾いて見えた。作り物のようなショートケーキは見るからに硬そうで、鮮やかなゼリーは身体に悪そうな色で輝いている。洒落た洋菓子の中でヨーグルトがふたつ縮こまっていた。仲間に入りきれない様子がやりきれなくて、買ってしまうことにする。
 上段にあるカフェラテを選び、明日の朝食にと思って目についた食パンも手に取ってレジの方を向き直った。刹那、がつんと殴られたような鈍い衝撃、しかし撫でられたような甘い感触が同時にわたしの頭を襲う。
 例の男性店員と目立たない声で会話する、もうひとり。こちらに向けた背中は窮屈そうに指定の制服に押し込められており、何やら書類を整理しているようだった。力のこもらない、自己を主張しない背中へ繋がる首が見たことのある動きをして凝りをほぐす。全身に柔らかな緊張が走った。
 目を離せばいいのに、吸い寄せられるようにして見てしまう。視界に入れておきたくなる。彼があごを少し引いて首の後ろを伸ばしたあの瞬間、まさか、という思いがしたが、それに続く右へ首を折るように倒す仕草が不明瞭な記憶と目の前の現実とを決定的に結びつけた。
 黒髪の店員はレジの台に体重を預けながら、相変わらずやる気無く二、三の言葉をぼろぼろと落とす。そして奥に引っ込んだ。引きずるような力ない足音が遠ざかる。声だけで彼を送ったもうひとりは自分を見つめる視線に気付いたらしく、ふと、こちらを見た。
 深夜のコンビニエンスストアの端と端。店内を斜めに走る視線が交わって、もうひとりの彼は驚きを見せる前に泣くように笑った。最後に見た笑顔よりも寂しさが増していた。
「瑞歩」
 その唇が躊躇いがちにかたりかたりと一文字ずつを紡いでわたしの名前を呼ぶ。彼の顔に張り付いた笑みは崩れることなく、まるでわたしに会うこと、わたしがいることを知っていたかのようだった。振り返るタイミングも、そこから笑顔の浮かぶ速さも、そして変わらない緩んだ声も。
「航太郎」
 喉元に押し寄せる数多の感情の代わりに、不思議な夜の記憶に刻み込むようにわたしも彼の名を口にした。
「久しぶり」
 距離を置いたまま、硬くはないのに揺るがない表情とは裏腹に言葉の端々にはぎこちなさが目立つ。しかしどちらも不自然に固まったわたしは、うん、と鼻を鳴らすので精一杯だった。
 何年振りだろう、と思ったら、彼がわたしの恋人であったという事実が心を小さくくすぐった。
 彼はレジカウンターの向こうに居て、歩み寄れるのはわたしだけ。そんな状況がかつてのわたしたちの付き合いかたを象徴するようでなんとなくおかしかった。
 すべてのことをあまり深く気にしないようにしてレジに向かい、商品を台に置いた。その間、わたしは彼を見れなかったけれど、俯いた頭を貫く視線はずっと感じていた。
「なんで」
 バーコードを読み取る音がひとつ、彼の低い声の上に印をつけるように鳴った。顔を上げると、最後に会った時よりも落ち着いたブラウンの髪が目に入る。それ以外、表立った変化はなさそうだ。もともと彼が持っていたものが少しずつ目盛りの大きいほうへ移動したくらい。それは例えば伏せがちな目が帯びる虚ろな感じであったり、仕草に表れる飄々とした雰囲気であったりした。
 互いに抱えているであろう、少なくともわたしの胸中には渦巻いている、なんで、どうしての疑問。航太郎の、なんで、の後に続く可能性のある言葉が多過ぎて、わたしは何も返せない。
「なんで」
 二度目のそれはわたしに向かってではなく、自分に聞かせているようにも感じられた。語気は強くないけれど、穏やかさはあまり見えない。
「実家に来てたの。明日も仕事だから、ちょっと買い物」
 そのパンは明日の朝ご飯、と付け加えると少しだけ空気が和らいだ。
「カフェラテは」
「眠気覚まし」
「ヨーグルトは? 二個もあるけど」
「なんとなく、ね」
「じゃあ、これは」
 それは、と答えたところで、ピ、と短く鳴る音がわたしの言葉を遮った。触れずに済ませたい話題への入口になってしまう気がして、けれどここで黙ってしまうのも気分が悪くて、それに適当にごまかせるほどわたしに余裕はなかった。
 航太郎の目が、これは、ともう一度尋ねる。
 あの頃もそうだった。ふたりで出掛ける行き先も、ご飯を食べる場所も、大抵は航太郎が決めてくれた。けれど細かいところの選択権はちゃんとわたしにもあった。そしてその決定の理由を、彼はいつも欲しがった。その答えを求めるときは、一度目は言葉で、二度目は眼差しで。
「子どもが、明日要るっていうから」
 航太郎は慣れた手つきで名前ペンを袋に入れたけれど、僅かにその手の軌道に予想外の揺れが生じたのをわたしは見逃さなかった。けれど顔を直視することはできなかった。そっか、と口の先で弾かれた言葉が宙に消える。さっきまで店の床を這うように存在無く流れていた音楽がふっと浮き上がって沈黙を埋める。
「航太郎こそ、なんで」
 彼がエリートコースを歩んでいるだろうと勝手に思っていたのはわたしだけだったのだろうか。それなりの大学へ進んだ彼が三十にもなってコンビニエンスストアで働いているとは夢にも思わなかった。
「……まあ、いろいろあって」
 あくまで語るつもりはないらしい。わたしも問い詰める気はなかったのでそれ以上は何も言わなかった。
「男の子?」
 ヨーグルトを袋に入れながら航太郎が訊いた。ビニールを挟んでレジ台にぶつかったそれらがコトリ、と素朴な音をたてる。
「うん、一年生なの」
「結婚してたっけ」
「会社の先輩と、ね」
 今、単身赴任でいないんだけど、と言うと、彼は、大変だな、と抑揚なく言った。冷たい感じはしなかった。
「いろいろ変わったんだね」
「まあ、だいぶ会ってなかったからな」
「最後に会ったのいつだっけ」
 ああ、と額を見るように視線を上へ向けて回想する航太郎。それは何かを思い出そうとするときの彼の癖だった。
「干支、今年と一緒だった気がする」
「じゃあ十二年だ」
「随分経ったんだな」
「変わらないほうがおかしいよ」
 彼のこぼした、そうだな、が柔らかい余韻を残して消えた。
「感動の再会にしてはちょっと安っぽくない?」
 辺りを見回しながら言うと、そんなもんだろ、とそっけなく返される。
「なんか俺ばっか訊いてるな」
 レジ袋の持ち手をまとめながら自嘲的に笑う航太郎は、なにか訊いて欲しそうな目をしていた。目が合うと心の奥のもやもやを見透かされたみたいな気がして少し怖かった。
「訊いて欲しいこと、あるの?」
「うーん、あんまり」
 でも、と続ける航太郎が再びわたしの目をまっすぐに見た。
「そうやって訊いて欲しかったのかも」
 捨て犬のような細い笑い声を少し鳴らして、彼はレジへと視線を移す。
「でもいろいろあり過ぎて、逆に言うことない」
 七百九十四円です、と言われて忘れかけていた今の彼との関係を思い出す。その後に続くマニュアル通りの言葉は、航太郎だからという特別性を一切持たずにさらさらとわたしの耳をすり抜けていった。
「二百六円のお返しになります」
 小銭を手渡された瞬間、肌の先が触れ合ったけれど、初めて手を繋いだときの甘さはかけらもなく、それどころか彼の手にはあまり温度らしいものが感じられなかった。
「子ども、待ってるんじゃないの」
 何か言わなければ、と言葉を探すわたしに航太郎は穏やかに言う。それによってわたしは一夜の夢から明日があるという厳しい現実へ引き戻される。後部座席で野菜や漬物にもまれながら寝息を立てる息子のことが急に心配になった。これでは母親失格だ、と自省する。
「早く行ったほうがいいよ」
「ありがとう」
 俺、なんにもしてない、と航太郎は優しいにごりを含んで目を細めた。
「あ、でもレシート」
「ああ、ごめん」
 口では謝っておきながら航太郎は何故かいたずらっぽく口角を引き上げた。ちょっと待って、と発行したレシートの裏になにやら書きつける。それを待つわたしにまた質問をよこした。
「名前、なんていうの」
「息子?」
「うん」
「こうたろう」
 今度は躊躇わずに言えた。航太郎のほうが微量ながらも戸惑いを隠せないようで、は、と顎を突き出すようにがばっと顔を上げた。
「こうたろう?」
「うん、こうたろう」
「どういう字?」
「光に、太郎」
「ああ、ふうん、そっか」
 漢字を思い浮かべてイメージを形作れたらしい航太郎はくしゃっと笑う。
「いい名前じゃん」
「自分で言わない」
「違う、こうたろうくん」
「どっちの」
「どっちも」
 そしてレシートを手渡される。彼の手にはちゃんと人間らしい温みがあり、それがわたしに安堵を与えた。
 レシートを財布に挟んでレジ袋を持って初めて、いよいよ別れのときが来たのだと悟った。これが彼との最後になるかも知れなかったけれど、そういう辛気臭さはなかった。
「じゃあ、また」
 確約できない、また、という言葉には悪意も他意もないのだろう、さよなら、で締めるにしては楽天的な別れでいい。
「うん、またね」
 意図的に繰り返して、わたしは航太郎に背を向けた。しかしすぐに、あ、と何かを思い出したような言葉で足を止めさせられる。振り返ったわたしの目に映った航太郎はまた瞳を目の上のほうに寄せていた。
「レシート、捨てちゃだめだよ」
「なんで」
 最初の、なんで、よりも、ずっとずっと自然な響きがした。
「なんでも」
「さっきなんか書いてたよね」
「うん」
「何書いてたの」
「見ればわかる」
「だから何って」
「早く行かないと。こうたろうくん、待ってるよ」
「もう」
「お元気で」
「そっちこそね」
 明日にでも会えるようなフランクさで踵を返し、「店員」の、ありがとうございました、を背中に聞いてわたしは店を出た。
 車に乗り込んで助手席にレジ袋を置いてカフェラテにストローを差して一口すする。渇いた喉を伝うほろ苦さが、大人びていた航太郎の真似をして飲んだコーヒーの苦さを記憶から引っ張り出す。
 バックミラーに映るコンビニエンスストアは相変わらず眩しくそれを包むはずの夜から離脱していたけれど、目を刺すような痛さは消えていた。
 赤信号に阻まれてカーナビの横の時計を見遣ると、十一時半過ぎ。停まったついでに財布からレシートを出してその裏を見ると三桁、四桁、四桁の十一桁の数字が細長い字で書かれていた。それだけだった。しかし彼の意図を汲むには充分だと思う。
 選択権はわたしにあるということ。
 深夜の二十分間は、わたしと航太郎の空白の十二年間を埋めるには短すぎたということ。
 わたしのことを待っているこうたろうは、この世界にふたりいること。ひとりと、ひとりで、ふたり。
 そして、そのひとりとひとりを繋ぐのは他の誰でもなく、わたしであるということ。
 

 

 

ふた  (title by 沖本様)

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