緩くウエーブのかかった長い髪をはらいのけながら、浩子はくるりと振り返った。その向こうでブランコが風に吹かれておずおずと、しかし楽しげに身体を揺すっている。
 学校帰り、校門から出る僕の自転車のかごに浩子が鞄を突っ込んで、笑って、それからふたりで並んで歩く。その途中で公園に寄る。そしてそこで一時間くらい過ごしてどちらからともなく帰ろうと言う。
 いつもの制服、いつもの公園、いつもの笑顔。穏やかな陽だまりの時間は、僕と浩子の日常として根を張ろうとしていた。しかしこれが成立するようになったのは浩子がダンス部を辞めてからだ。その理由を僕はまだ知らない。
 丘の上にある公園からは街が一望できた。街に近付くように高度を落としてやがて沈んでゆく太陽だけが日々の変化を魅せる。夏も暮れ、夕から夜に染まりかける公園には子どもの声はなく、空っぽの公園に浩子の影だけが長く伸びる。彼女はふにゃり、と頼りなく笑って遊具から離れ、街を見下ろせる位置にぽつりと置かれているベンチに腰掛けてこちらを見た。
「拓也も、おいでよ」
「うん」
 隣に座ると、眩しい陽光が全身に押し寄せてくるのを感じた。突き刺すような鋭さはなく、あくまで僕をまるごと包むように丸く、大きく。
「気持ちいいよね、ここ」
 僕が数学の予習をしていても、本を読んでいても、携帯電話をいじっていても、浩子はいつも一人で勝手に喋っていた。僕が音楽を聞いているときだけはものすごく不機嫌そうに黙っていたけれど、少ししたらけろっとした顔で口笛を吹きながら身体を動かしていた。
 初めて来たときは確かまだ浩子は部活を辞めていなかったと思う。けれど、その意志は少なからずあったのだろう。僕はなんとなく、同じところでくるくると舞い続ける彼女を見てふと、誰がこうさせるのだろう、と思った。自分の好きなことは選べるもので、生きかたなんていくらでもあって、世界はもっと広いのに。
「あたし、ここが好きなんだ」
 僕の無言の問いに答えるように浩子が、ト、とローファーを鳴らして立ち上がる。
「だからずっとここでいいの」
 華奢な身体でくるりとターンを決める。部活を辞めてからそれなりに日が経ったはずなのに、浩子の動きには乱れがない。少なくとも僕には感じられなかった。
「もう舞台じゃ踊れないけど、ここがいいの」
 石畳のステージ、陽光のライト、たったひとりの観客。花束も衣装もないけれど。
 むしろ何にも囚われぬ浩子の姿は美しかった。僕はしなやかに動き回る身体の隙間から漏れてくる光に目を細めながら、ただぼんやりと彼女を視界に入れていた。
「羽ばたくつもりはなかったの」
 僕の隣にふわりと戻ってきて、浩子は静かに右膝を擦る。瞬間、ずきり、と何かが痛々しく音をたてた。それは僕の心臓だったのか、それとも彼女が抱える重たい何かだったのか。
 彼女が部活を辞めた理由を、僕は断片的に理解した。
「ただ、自分にもうちょっと自由があったらなって思ったの」
 髪を指に絡ませながら浩子は、あたし、もう髪切ろうかなあ、と言った。どうして、と尋ねると、もう伸ばす必要ないから、と何故か寂しそうに笑う。
 誰よりも惜しんでいるのは浩子なのに、彼女は誰よりも振り切れた表情で世界に立ち向かう。
「もったいないよ」
 思わずこぼした言葉に浩子はちょっとだけびっくりしてみせてから、ありがとう、と目元を緩めて微笑んだ。
「でも、あたし、新しくなりたいの」
 いつまでも引きずってちゃいけないと思うんだ、と立ち上がり、帰ろう、と言う。
「思い出ってね、持っておくには重たすぎるから、どこかで置いていかなきゃいけないときがあるの」
 先立って、軽やかに公園を出ていく浩子は、柔らかな羽をめいっぱいに広げ、大きな世界を見に行こうとしていた。妖精はついに森を出たのだ。すべてを捨てて、お気に入りの歌とステップだけを誰かの記憶に残して。
 

 

 

フェアリー・ガールが森に 
                       ――優雅な動きで踊ってよ、甘美な響きで歌ってよ

あとがき    back

 

inserted by FC2 system