彼が倒れたという知らせは日常の底を這うように、しかし確実に構内の人間に広まっていたらしい。
 時雨なら知ってると思ったのに、と学友たちは口々に言った。その言葉がわたしの胸をちくりと刺した。そんなやるせなさは誰よりもわたしがいちばん感じていたのに。
 冬の到来に浮かれムードの構内をそそくさとすり抜け、隣接する大学病院へ向かった。あれもしたいこれもしたい、などと賑やかに冬の予定をたてる声の温みとは相反する、足元からじわりと這い上る寒気。それが、いつのまにか心に住みついていた焦燥と相まって、冷静沈着を気取るわたしの意思とは無関係に灰色の廊下に響く足音の間隔を狭める。
 ここ数日、講義には出席しているものの、いまいち集中しきれない日が続いた。心の中の何か、それも相当大切なものをすっぽりと抜き取られてしまった虚無感に襲われて、とりとめもないことを考えて、答えなどない問題に完全な解答を求めて、思考はひたすらに堂々巡りをくりかえして、気付いた頃には講義が終わっていた。目の前に広がっているノートには人並みに書き込みがある。まるで自分がふたりいるみたいだ。いつもは共同作業しているのに、この頃は何だかそのうちのひとりが虚ろなことばかりしている。
 理由はわかっているつもりだった。いつも埋まっているはずの斜め左後ろの席が空っぽなこと。たった、それだけ。視界に入る訳でもなく、気にしているつもりもないのに、わたしの背後を吹き流れてゆく風がやけに冷たく思われて、忍び寄る妙な涼感に身震いがした。
 開始すれすれに最後列に滑り込んできて、終了のベルと同時に出ていく。そんな彼だから毎時間その姿が認められる訳ではないけれど、存在というのはなんとなくわかるものなのだ。ギシリと軋む扉の音。ふわりと舞い込む外気。足音。香り。それから、ときどき聞こえる穏やかな寝息。
 落ち着かない理由が彼にあると気付いてから、彼がいない理由を知りたいと思うまでにはかなり時間がかかった。否、しばらく気にしない振りをしていたのだ。心の奥底ではずっと彼のことが引っ掛かっていた。 それから、病院内の諸々に精通する友人を捕まえてそれとなく彼のことを訊き出すのに、また幾分の勇気が必要だった。彼と親しくしている人間をひとりも知らなかったので、情の無い話だが、そちらから攻めるしかなかったのだ。
 うちの大学の附属病院はそれなりに明るく、よくあるそれの灰色のイメージとは掛け離れた、クリーム色を基調とした内装に、よく手入れされた植物や置物がうるさくない程度に並んでいて患者の精神にとても優しいものだった。
 想像以上に時間の流れがゆっくりしている。もう冬だというのに、院内は明るく温かく常春のようだった。ここには季節がないのだな、とふと思った。一年中過ごしやすく、同じ植物がただ成長して枯れていくだけ。規則はあるが循環することはなく、一直線の時間軸をただひたすらに突き進むだけ。
 カルテを片手に歩く看護師らしき女性を捕まえて彼の名を告げると、突き当たりの手前の部屋を指差された。お礼を言ってさらに進み、ルームプレートを確認した。確かに彼の名である。引き戸の前に立ってから、手土産に果物くらい買ってくればよかった、と後悔した。花とか、お菓子とか、やりようはいくらでもあったのに。
 けれど、今となっては後の祭りなので躊躇いを振り切り、ノック。
「わたし」
 少し間があってから、どうぞ、と声が返ってきた。ガラリ、戸を開ける。
「久しぶり」
 春の陽気とは少し異なる、冬の午後の柔らかい光が照らす病室。窓外の木々に僅かに残る葉が微かに揺れている。ベッドの上に優しく散らされた木漏れ日が彼の身体をシーツ越しにじわりじわりと温めているようだった。いかにも病人らしい寝間着ではなく、襟のついた簡単なシャツにカーディガンを引っ掛けている。
「時雨」
 いつになく角の取れたまるい声でわたしの名が呼ばれた。脆弱なのとはまた違う響きだ。
 ふわり、風が端に寄せられただけのカーテンを揺らす。その陰に佇むシックな本棚には彼の好みそうな本が数冊、割合ゆとりを持って納まっており、そのうちの一冊と思われる本が彼の手元に広げられていた。その横には栞がぺらりと置いてある。
「ほんとに、久しぶりね」
 彼に歩み寄ると、座れば、とベッドの横の丸椅子を指された。ありがとう、と手にもっていたコートと鞄を膝に乗せて腰掛ける。彼は栞を挟んで本を脇へ置き、わたしに顔を向けた。猫背気味の彼と気張って背筋を伸ばすわたしの視線の高さの差が普段と異なって少し不思議な感じがした。いつもより、近い。でもきっとその近さは物理的なもの。
「ちゃんと授業受けてる?」
 ほら、他人行儀。そうやって分別の良さを演出するのだ。いつもの他愛ない言い争いなどなかったかのように。
「あたりまえでしょ」
「俺がいなくて寂しいとかないの」
「そんな訳ないでしょ」
 顔の表面だけで笑って小刻みに震える胸を落ち着けた。自分が倒れても頼ってくれないし、入院しても連絡のひとつさえよこさない。それなのにひとりで寂しさと膝を抱えて部屋の隅で泣いていろとでも言うのか、この男は。
「普通にやってるわ」
「ちょっとくらいなんかないのか」
「なんかってなによ」
 たまたま一緒に受ける講義があり、偶然居合わせるカフェがあり。わたしと彼の関係はいつも偶発的なもので約束がなく、法則性がなく、制限がない。それなのにどうして。
「服、買ったとか」
「ない」
 金銭的なやり取りもなく、贈り物も頼みごともなく、ゆるゆると空き時間を一緒に過ごすだけなのに。彼との時間は神経をやられる研究のリフレッシュ、弛緩材料でしかなく、ただ戯れに言葉を交わすだけなのに。
「髪、切ったとか」
 首を横に振る。
「誰かに好きだって言われたとか」
 右手をひらひらと振って否定する。
「俺のこと気になったとか」
「だから、来てあげたじゃない」
 けれど、わたしが彼に依存しているのは明らかなのだ。否、もっと強い。執着。寄生。
 彼が望んでわたしが訪れたのではなく、わたしのほうが吸い寄せられるようにここに来たのだ。
「ああ、そうか」
 ありがとな、と彼の緩めた頬はいつもよりこけていた。口調こそ変わらないが、紡がれる声はなんだか弱々しく響く。優しさとか弱さは案外似たようなところがあるらしい。最初気丈に見えたのは、長らく合っていない間にわたしが勝手に彼の今以上に衰弱した姿を想像していただけに過ぎないのだろうか。
「長引く病でもないから、心配するなよ」
「してないわ」
 嘘。不安だらけだ。心の瓶に蓋をするもやもやの塊が取り除けないもどかしさ、その名を知ることができないだけど、この感情がどうすれば治まるのかはわかりきっていることなのだ。結論を言えば、彼なしではやっていけないだろう、悔しいけれど。
「ダンスパーティ、あるんだって?」
 そう言われてわたしは掲示板に張られた色とりどりの広告のうちの一枚を思い出す。学部でクリスマスイブの夜を踊り明かすという趣旨のもので、硬派で有名な先輩の名前が責任者として記載されていた唯一の公式イベント。
「それだけはオフィシャルなんだろ」
「みたいね、よくわからないけど」
「出るよな」
「そんな気、毛頭ないわ」
「もったいない」
「なんでよ」
「時雨の着飾ったとこ、見れるじゃん」
 いやよ、と目を伏せる。幼い頃はそれなりに着飾って父の祝宴に連れていかれることもあった。しかしあの頃感じていたお人形になった気分はいまだ拭えない。歩くたびに膝のあたりで揺れるフリルは鬱陶しい以外の何物でもなく、首にしたチョーカーは父の犬である証のように感じられた。誰も悪くないのはわかっていたつもりだけれど。
「どっちみち教授と先輩に挨拶はしないといけないんだからさ」
「別にいつもの服でいいじゃない」
「情がねえなあ」
 快活そうに笑うのすら痛々しく映る。春にわたしの手を引いた腕は血管が浮き出るほど肉がなく、やたらごつごつしていて、夏にわたしが平手打ちをお見舞いした頬は色味がない。
「あんたこそ、早く治さないと出れないんじゃないの」
 そうなんだけどさ、と彼は無造作に髪をかきわける。もともと外見にあまり気を遣うタイプではなかったけれど、今は前髪が邪魔になるくらい長く伸びていた。
 訪れた少しの沈黙を彼から視線をそらして受け止めた後、ふと、なんで病気になったのよ、と尋ねた。
「秋にさ、林檎のおじさんと出掛けたじゃん」
 あの雨か、と心当たりが浮かぶ。さめざめとすすり泣くような雨。肌を伝う冷気と遠くで鳴る雨音だけがやけに印象に残っている。
「あのときの雨だな、たぶん」
「随分長引くのね」
「俺って普通じゃないから」
 木の葉から零れ落ちるひとひらの雪のごとく、彼の言葉がわたしに降る。背後からの寒気を感じて窓外を見遣ると、白いものがふわりふわりと舞い始めていた。今晩は冷えるだろうな、とふと思う。
「早く治してね」
 外を見ながら、言う。ああ、と返ってくる答えは、わたしの顔の方にきちんと向けられていたけれど。
「死ぬ前にいろいろやりたいこともあるし」
「治した後に、って言ってよ」
 冬の暖房のまどろむような温みに身を任せて、わたしは彼の手に触れた。ちょっとびっくりしたようなそぶりを見せたけれど、彼は静かにそれを受け入れる。
 わたしが彼を追うと彼はどこかへ去って行ってしまうのに、彼がわたしのほうを見てくれているときにわたしは彼を直視できない。すれ違いしか知らない。終わりのない追いかけっこをして、悲しみを隠して楽しんだふりをしている。今も、今までも、もしかしたら、これからも。
 何故か溢れてくる涙は予想以上に熱を持っていて、わたしに胸の高鳴りを教えた。彼はそれを拭うでもなく、左手をわたしの手に預け、右手でわたしの髪を静かに撫でた。ばかにされるかと思ったけれど、彼は意外にも優しく、ただただ穏やかであった。
 けれど。すぐそこにいて、しかもその肌に触れていて、わたしと言葉を交わしているのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろう。寂しくなってしまうのだろう。
「なあ」
 困惑の声色で彼がわたしをそっと離す。彼に向き直ると、やっと自然に緩んだ頬がわたしを温かく迎えた。口角の引きつりがほどけて、少し、ほんとうに少しだけれど、彼がわたしに何かを気付いて欲しがっているような気がした。
「……なに」
 一秒一秒をかみしめるように、ゆっくりと訊き返した。
「俺、時雨とキスしてから死にたい」
「は」
「死ぬ前に、キスしたい」
「なんで」
「わかんない」
 ほんとうにわからないといった顔で、無垢で純粋な子どもの顔で、言う。
「しないわ」
「けち」
「惜しむなら自分の命を惜しみなさい」
 立ち上がって、吐き捨てる。
 ばかだ、わたし。ほんとうに。年中、こんなことやってる。いつか終わってしまうのは確実なのに。肝心なことは清算しないで、どうでもいいことばかり言い合って、不明瞭な過去の上に、とりとめのない現在を重ねている。
 緩い地盤に不規則な木材を重ねても、家はできない、安定の将来は築かれない。その都度、気付いた不足を応急的に補って、その日暮らし。未来が望めない。そんなのは嫌なのに、渦中にいる間は無意識のうちに受け入れてしまう状況。
「もう来ないわ」
 どうしてこの期に及んでまだ笑顔なの。嬉しそうなの。餌をもらう前の子犬のようなあどけなさで、わたしを見るの。
「絶対、来ないから」
「俺、死ねないじゃん」
 死ななきゃいいじゃない、と言い返すこともならず、わたしは無言で彼を睨んでから何か言われる前に病室を飛び出した。扉を閉め、立ち去ろうとしたけれど足が動かず、扉に背中を預けてしゃがみこんでしまう。
 今回の一件で、彼のことをもっとちゃんと大事にしよう、と改めて心に決めたはずだった。今自分が生きている日常を当たり前と思わない。せっかく、この時間が永遠でないことに気付いたのだから。なのに、どうしてうまくいかないんだろう。
 一度は引っ込んだ涙がまた堰を切ったように溢れ出してきて、いろんな気持ちが一気にわたしの心に流れ、淀み、渦巻いた。さっさといなくなりたい衝動。しかし離れられないもどかしさ。彼のちょっとしたワーディングの腹立たしさ。しかしその声への愛着。柔らかな笑顔への慕情。そして悲しげな表情の奥に潜んでわたしの心を締め付ける何か。否、悲しげと形容するのではまだ軽い。何かを秘めているのに、それを秘めていることすら隠し通そうとする強がり。
「大嫌いよ」
 唇の端から零れた言葉はあまりにも薄っぺらで無表情だった。彼への想いはいろいろな種類がある。けれど、今は、それをすべてまとめて、嫌いという言葉にその意味を託したい。この気持ちは嫌悪でも憎悪でもなく、嫌いという感情ですらないけれど、わたしは、彼が嫌い。嫌いなのだ。
 木枯らしのびゅうという音に耳を塞ぐようにコートの襟を引き立てて、わたしは帰路についた。
 

 

 

冬は踊れず 
                       

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