ぐるり、ぐるり。反対に、ぐるり、ぐるり。
 異常な白さであたしの目を攻撃する壁にかかったシンプルなアナログ時計を見遣ると、午後十一時を回ったところだった。
 溜まった洗濯物をバスケットに放り込んで、手近なコートを羽織って、出掛けに消したテレビでは連続ドラマのヒロインが壮大な音楽をバックに泣いていたので、それはおそらく十時前。かれこれ一時間ここにいる計算になる。
 賃貸アパートの一階にあるコインランドリーは、その上に住む者だけでなく、近隣の住民も利用するちょっとした地域の憩いの場として名目上は定着していた。ここの二階に間借りしているあたしはよくお世話になっている訳だが、実際、専業主婦のいる家庭の多くは年に一度も訪れないし、お年寄りはおろか、一人暮らしの若者もたいていは自宅で済ませてしまうので、利用客は昼間にぽつぽつ現れる程度だった。それもほとんどがここの住人――ぜひ使ってくださいと言わんばかりに、ここのアパートには洗濯機が設置しにくい間取りになっている――しかもわざわざ時間をずらしてくる。一種のテリトリーのようなものだ。時間帯によって分煙する飲食店よろしく、あまり訪れない時間にやってくるとその時間の主にぎろりと睨まれる。
 あたしの担当は夜八時からの二時間程度だった。茶の間のテレビが黄金に輝く頃、ひとり静かに洗濯機の回転音を聞く。
 しかし今日は帰宅後に仮眠をとってしまったので、ここに来るのが遅れた。ここのところなかなか身の回りの整理をする暇がなく、正確に言うと、精神的な余裕がなく、冬という季節も加勢して、それこそ食器類は洗っているものの、洗濯物がちょっぴり溜まっていたのだ。言い訳はともかく、女子としての品格以前に社会的に生きる人間として、そろそろ片付けてしまわねばならなかった。
 あんまり急いできたものだから携帯電話は部屋に置いてきてしまったようだ。読みかけの文庫本は部屋に転がった鞄の中だし、バスケットのほかに持ってきたものと言えば財布くらいだった。雑誌が置いてある訳でもなく、古びたブラウン管のテレビはいつのまにかなくなっていた。手持無沙汰のあたしは秒針が長短の針を追い越すのを漫然と眺めて時間を潰していた。
 ふと、闇夜から黒ずくめの男が浮かび上がるように来店した。ちょっとだけ会釈するような仕草をしながら自動ドアをすり抜けた彼は無音のうちに目的の作業をさっさとこなす。同じ空間にいるあたしのことなどお構いなしだ。あんまりな疎外に嫌な気はせず、むしろこちらも彼の一挙手一投足をあからさまに見ることができる。
 彼の手にしているのはオフホワイトのエプロンのようなものだった。様々な色が布を不規則に染めているので、それがすべて同じようなものだと気付くのに多少かかった。その中のいくつかの緩やかな濁りを含んだ色が何故かピンポイントであたしの心をつかむ。はっと目を引く奇抜な色ではない。しかし、そこから見えざる手が伸びてきてあたしの心の奥の小さな塊に触れて、くすぐって、刺激して、気付いた時にはぐっと掴まれていた。
 こんなの初めてだ。
 そう思ったらなんだか悔しくなって、さりげなく目を背けた。
「これでいいんですかね」
 彼のまとう飄々とした雰囲気にふさわしい声。それはまぎれもなくあたしに向けられたものであった。鋭い相貌があたしを捕まえる。
「だ、いじょうぶ、だと思います」
 ぼそぼそと答えると、そうか、と返された。礼のひとつも言わないが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「静かだ」
 洗濯機のうなりだけが断続的に鳴る密室。零れた言葉は静けさを慈しむというより、むしろ孤独の響きがあった。
「よく来るんですか」
 お腹に力を入れて絞り出そうとした言葉は、彼の虚ろな光を灯した目によってするりするりと引き出されるように口から飛び出した。声を出すというのは、こんなにも簡単なことだったのか。声を発することと、言葉にすること、同じようで大違い、しかし似ていることは否めず、どちらも易しく見えて難しく、それでいて実は簡単なことだ。
「ああ」
 男の声が少し揺れる。
「職業柄、よく汚すんだ」
 彼は少し離れた椅子にガタンと座り、骨張った手で空を掴んでは放し、握っては開き、関節をひとつひとつほぐすように指を動かした。売り物になる手だ、と思った。特別美しい訳ではないが、その手は何かを生み出す手だった。
「きれいな色ですね」
 落とすのもったいない、と微笑んでみせると、彼は少し驚いたように、ほう、と喉を鳴らした。
 ちょっと待ってくれ、と彼はポケットをしばらく弄って一枚の白い小さな紙を取り出すと、白いテーブルの上を滑らせながらあたしに寄こす。
 鞄も持たない、時計も持たない、無造作な出で立ち、そこからの予想に反してそれは二つ折りの折り目以外に皺は無く、端の繊維もまだとげとげしく、広げてみるとそこに海が広がった。多彩な色。あたしを魅了してやまない色があちこちに散りばめられた海だ。そしてその色はスペクトルではない。隣同士の色は確かに連続的に繋がっているが、ところどころで華やかな輝きを示す色はそれぞれが独立しているのだ。この世のものではない。けれど、実在するかどうかなどは問題ではない。
「時間切れだ」
 男の言葉に顔を上げると、彼はカタリ、と立ち上がり、鬼が来た、と呟く。大きな丸いボタンのような座部に四足が付いただけの安い椅子は、ガガッと音を立ててテーブルの下に収まった。
「よかったら来るといい」
 あたしの握りしめた紙の下部を男の指が差す。間近で見た指があたしの脳裏に焼きつけられる。
「指じゃなくて、文字」
 慌てて指の先を追うと、展覧会、の文字。彼は芸術家であった。
「僕のも隅っこに飾ってあるから」
 嘘だ。しかし美しい。
 この入場券の色はさっきの布についていたものと一緒だ。印刷の具合もあって微妙な違いはあるが、間違いない。そんなところに使われる絵が、隅に飾られているものだろうか。
「鬼が怒ってる」
 その言葉と同時に薄情な機械音があたしの洗濯の終了を告げる。乾燥機のボタンを押そうと立ち上がると、彼は、じゃ、と片手をひらひらさせながら店を出ていった。
 ガラス越しに、白いコートに身を包んだ女性、いや女の子が彼を迎えるのが見える。
「やけにかわいい鬼ね」
 なにやら悪態をついている男の目は最初よりもずっとずっと優しい光に満ちていた。
 何故か湧きあがる嫉妬心は、きっと、あの女の子はあんな素敵な色に囲まれて生きているのだ、と直感したからだ。

 乾燥も終わって、すべてのものをバスケットに取り込んだが、まだ洗濯機の作動音が空気を震わせている。振り返ると、先ほどの男の使っていたランドリーが揺れていた。
 どうやら絶対に観に行かねばならないらしい。
 半ば自棄気味に入場券をコートの胸ポケットに突っ込むと、硬いものが指に触れた。取り出して見ると、携帯電話が赤く点滅してあたしに擦れた微笑みを向ける。
 ここにあったのか。しかし、このかくれんぼのおかげで、ちょっと粋な夜を過ごすことができた。
 もう一度腰を下ろし、冷えた指で展覧会の開かれるホールを検索する。一緒に出てきた男の顔写真はやけに格式ばっていて、さきほどの緩んだ笑顔とは似ても似つかぬ「見せるための写真」に笑いをこらえきれず、吹き出したあたしは、自分の笑い声にまた笑った。

 

 

 

闇夜にわれて 
                       

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