空腹ガール

 

2, カラフルとブラックと


 
「ちょっと待って!」
 
 乗り換え線のホームに行くのでもなく、飲食店に寄るのでもなく、ただ単に歩き続ける山田さん。これを止められるのはわたしだけだし、わたしが止めないと何もならないことはわかりきっている。
 ただ、泣いていることだけが気がかりだったのだ。
 わたしは今、生憎ほんのちょっとしか持ち合わせていない勇気を振り絞って声を出した。足も止める。それとともに山田さんも止まる。
 
「あっ……」
 
 たった今、我に返ったというように山田さんは子犬のような表情でわたしを見た。そして自分の瞳から流れる液体に気づいて慌ててそっぽを向き、タオルでごしごしとぬぐった。
 
「ごめん、陽ちゃん。あの、あたし、統也――」
「ねえ」
 
 往来の真中ですすり泣く長身の少女とそれをいささか冷たい目で見るわたし。本当は、大丈夫、とかなんとかいって慰めてやりたいところだが、わたしはその術を知らない。
 
「ごはん食べに行こうよ」
 
 それが今わたしにできる精一杯のフォローだ。
 背中を静かにさする。きょとんとしている山田さんの手を今度はわたしが引いてやった。
 
「わたし、お腹すいちゃった」
 
 軽くおどけてみせるとやっと笑ってくれた。手のかかる人だ、と正直思う。
 
「ごはんだけでいいから。ほら、行こう」
 
 でもまあ、仕方がないので近くにあったカフェレストランに山田さんを引きずりこんだ。記憶のかたすみにあるグルメ雑誌のそのまたかたすみに名前が載っていたような載っていなかったような、そこまで流行ってはいないけれど、お客はそこそこ入っている店だった。
 カントリーな匂いがぷんぷんする内装の中で、明らかに場違いな、小学生が宿題で書いてきたような紙が一枚だけ貼ってあり、それにオムライスの自慢がつらつらと書いてあったので、わたしは迷わずそれを選ぶ。名付けて「長いものには巻かれろ精神」だ。
 
「わたしオムライスにするけど。どうする?」
 
 涙の訳は訊かない。わたしが訊いたってどうしようもできないから。
 山田さんは微かに潤む目をハンカチで拭うと、メニューを受け取った。
 
「あたしも同じのがいい」
 
 すっかり元気を取り戻した山田さんはオムライスをもくもくと口に運び、ゆっくりながらもすべて平らげて、この上ない笑顔でおいしかった、といった。
 確かにオムライスは美味しい。何杯でも食べてしまいそうなので、満腹中枢を刺激するためにわたしはとにかくゆっくり食べた。大食いのわたしと違って、山田さんは小食らしい。
 
 わたしは最後の一口を飲みこんでからスプーンを静かに置いた。ふと時計を見ると、午後二時過ぎ。何に時間がかかったのかはわからないが、家族は心配していることだろう。
 もう帰らないと。二時過ぎちゃったよ。
 わたしがそう言うより早く山田さんがその細い指で呼び鈴を鳴らした。
 すぐに真面目そうな店員さんがぱたぱたとやってくる。
 
「追加注文ですね?」
「トリプルパフェ、ふたつください」
「はい。トリプルパフェふたつですね。セットメニューでコーヒーと紅茶とございますが」
「コーヒーで」
「かしこまりました」
 
 どうして? 早く帰りたいのに。
 そう問いたい気持ちを抑えてわたしは店員さんが立ち去るのを待った。そして山田さんに尋ねた。
 
「お昼だけの約束でしょ?」
「そんな約束、したっけ。忘れちゃったよ」
 
 けろりとして言う山田さん。どうも彼女も最近の子に多い、デザートだけは別腹、という口らしい。正直、甘いものが好きではないわたしは僅かに残るオムライスにつかわれていたパセリの残り香をかいで気分を落ち着かせた。
 
「わたし、甘いもの苦手なんだけど」
「そうなの? めずらしいねえ」
 
 別段、驚く様子もなく曖昧な返事をよこしてきたので若干のいらつきが芽生えたが、もう一度パセリの効果にあやかる。落ち着け、落ち着け、相手は山田さんだ。最近の子だ。そういうタイプだ。
 わたしの脳内で起きている戦争なんて知る由もなく、山田さんはふと動きを止めて言った。
 
「ごめん、陽ちゃん。今、気付いたんだけど……」
「何?」
「――あたし、コーヒー飲めないんだった」
 
 ずごーっ。いつのまにかわたしの脳内では軍人たちが派手な衣装に着替えており、お笑い芸人が百人くらいずっこけた。わたしはそれを深く鋭い息に変えて示す。
 
「じゃあさ、あたしがパフェ食べてあげるから、陽ちゃんがコーヒー飲んでよ」
「うん」
 
 まるでその話を聞いていたかのようなタイミングで先ほどの店員さんがパフェとコーヒーを運んでくる。もちろん、それぞれ二つずつ。
 倒さないように、溢さないように、慎重にテーブルに置かれたパフェとコーヒーを見て、山田さんの笑顔が輝きを増した。
 
「いただきまーすっ」
「山田さん……」
 
 もう怒りを通り越してあきれているわたし。
 山田さんは小さなスプーンでトップのさくらんぼを下に落とすと、生クリームやシリアル、飾り切りの施されたフルーツなどを順繰りに食べた。オムライスと同じように小口で何度も何度も。
 それはどこか小動物を思わせるしぐさ、可愛いなあと純粋に思ってしまったわたしは、それとは対照的にカップを静かに口に運んでクールに気取ってみせた。
 
「ごちそーさま。陽ちゃん、ありがとね」
「いいえ。山田さんこそ、食べてくれてありがとう」
 
 わたしは社交辞令のつもりだったのに、山田さんは単純だ。お支払いはうるさくされると嫌なので、割り勘にしようと提案した。結局同じオムライスを食べたのだから、コーヒーかパフェか、というだけの問題なので、少しわたしが損する程度で済みそうだ。
 しかし山田さんはそれを呑まない。
 
「そんなの悪いよ。ほら、これを見て」
 
 突き出されたメニューには、パフェが四百八十円、コーヒーが二百三十円とあった。
 
「ほぼ倍額だよ。陽ちゃんに悪いから、普通に出すよ」
 
 それなら最初から頼まなければよかったのに、と思ったけれど楽しそうに話す山田さんを見ているとわざわざそんなことを言う気にはならなかった。
 店員さんはお釣りを渡すとき、お金を持っていない左手もちゃんと添えて渡してくれた。
 わたしはその心使いから、またここに来たいと思った。今度はできればひとりがいい。
 ありがとうございました、と律儀な発音で深々とお辞儀をする店員さんを後ろに、わたしと山田さんは店を出た。駅前の時計台は午後三時前を示していた。
 
「陽ちゃん、今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
「ねえ、また話してくれる?」
 
 話す、話。わたしは正直、話していた記憶がない。ただ食べていたような気がする。でも、楽しかった、それなりに。なんだかんだ言って、オムライスはもちろんコーヒーだっておいしかった。お店にもまた行きたいと思える。
 気づけばわたしは笑顔で首をふり、山田さんに肯定の意を伝えていた。
 
「ありがとう! 明日はとりあえず、この駅で会えたら会おう。まだ部活もないし、きっと同じ電車に乗れるから」
 
 そう言って、約束を取り付け、山田さんは去っていった。
 結局、明日のことなんて何も決めなかったし、もちろん涙の訳だって訊かなかった。それが正しいと思った。
 舌に残るコーヒーのほろ苦さをもう一度飲み込む。まだ、おいしい。
 ――そろそろバスが出る時刻だ。帰らなくちゃ。
 
 
 
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