空腹ガール

 

1, 新生活は極上のスパイス



 典型的、とはなにか。
 わたし――花本陽は携帯電話にセットアップされている辞書をつかって調べてみた。その手軽さはどうなの、と問う心Aに、そういう時代でしょ、と心Bが諭した。
 典型的とは、ある物の特徴を最もよく表している様子。彼は典型的な日本人だ、という例文まで添えてあった。
 
 湊高等学校で迎えた初日は、まさに典型的な名門校のものだった。
 入学式は何の問題もなく機械的にすすめられて理事長の挨拶も校長の挨拶も異口同音。PTAがないかわりに、みなと会というOB会――正直なところ、卒業してもこの会の幹事なんてやりたくない、面倒くさそうな仕事を母校のためとか何とか云いつつ結局は好き好んでしているおじさん九割と高慢ちきのおばさま一割――はあった。
 名高い私立高校の狭き門をくぐれば、道は無限の広がりを見せる。
 元担任の言っていたことはどうやら正しかったようだ。入学式で流されたスライドは卒業生の進路状況を含めた学校紹介で、その実績だけは胸が躍る思いで見ていた。本日、唯一、高鳴る心臓の鼓動を聞いた。
 その後、各教室に戻って担任の話を聞く。湊高校のHRは遠方を含めた様々な中学校の中から、俗に優等生といわれる生徒が集まっているだけあり、無駄な注意も作業もほとんど省かれた。とりあえず翌日の連絡だけされて解散し、生徒たちは帰り支度をはじめた。どこの中学でも共通して身についたのか、いつまでも教室で屯することはなく、さっさと門の外に出た。
 定期券を通し、湊高校最寄りの石森駅のホームまで来ると、電車の到着までまだ数分あった。
 暇を持て余したので携帯電話を取り出して先ほどの語「典型的」について調べたのだ。
 正直なところ、自分を凡人だと思いたくなかった。それは何万通りとある進路から名門湊高校を選んだ大きな理由のひとつでもあった。
 湊高校――少なくとも初日は、普通すぎてつまらなかったと思う。
 
 わたしはついこの前まで馬鹿だといわれるのが日常茶飯事の割と規律の厳しい中学校に通っていた。何かと大人に逆らいたがる学年の中で――損得勘定が得意なほうだったので――せっせと働きアリを演じてきたのだ。多くのキリギリスは家庭従事、専門学校へ進んだ。
 わたしの理想は、わたしのような人間がそろった集団の一員になること。決してトップじゃなくていい。高校進学というのはまさにうってつけの機会だった。わたしが見てきたキリギリスは入試という名の冬を越えることができずに朽ち果てていく。こればっかりは童話のまねをして食料を恵んでやるわけにはいかなかったから。
 そうして理想は今、典型的な名門校というかたちで実現されている。
 わたしはその事実が嬉しかったし、それと同時に期待に胸をふくらませていたのに。
 今日という凡庸な日と、明日への期待をこめて鋭く息をはく。
 
「花本、さん」
 
 アルト、それでいてややくぐもっている。わたしを呼ぶ声に振り向けば、同じ制服を着た女子生徒がひとり立っていた。鞄を肩から提げて、覗き込むようにしてわたしを見ている。
 彼女についてあれこれ推測するより早く、まずは向こうが名乗ってきた。わたしもそれが正しいと思う。
 
「あたし、山田星来」
「わたしは――」
「知ってるよ。花本陽ちゃん」
 
 そういえば、さっき名前を呼ばれたのだった。山田星来はわたしのことを知っているのか。
 山田さんはすっと寄ってきて右手を差し出したかと思うと、そのままわたしの右手をとって微笑んだ。その雰囲気に呑まれて、鏡で見たら間違いなく吹き出してしまうくらいのぎこちない微笑を返す。
 
「陽ちゃん、わたしのこと、憶えてる?」
 
 山田さんのライトな問いかけから、記憶にキーワード検索の命令を出した。スキャン終了の文字が浮かんできても、山田星来の情報は引っかからない。
 
「さすがに憶えてないか。ほら、入試と面接、前後だったじゃん」
「ああ、あのときの」
 
 適当に言葉を返す。
 
「あたしは憶えてたよ。みんながマニュアル通りの受け答えしてるのに、部屋から聞こえてくる声、凄く綺麗で、自分の言葉って感じがしたもんね」
「ありがとう」
「それに、このあたりじゃあんまり見ない制服着てたから」
「うち、田舎だもんね」
 
 まさかそんな軽薄な関わりだったのか、ともいえないのでさっきよりは、ましだと思われる笑顔をうかべる。最近の女子に多い、無駄に仲間をつくろうとする行動はどうも理解できない部分があった。
 腕時計を横目で確認するとお昼過ぎ。今日は半日で帰されたので、これから帰るかどこかに寄って食べることになる。わたしの予定は前者だったが、おそらくこの後変更になるであろう。山田さんに昼食に誘われると思うから。
 
「よかったら一緒に帰ろうよ」
「いいけど」
「じゃあ、行こっ」
 
 ちょうど到着した電車に引きずり込まれるようにして乗り、山田さんが端の席に滑り込んだのを確認してからその近くの吊皮を掴んで立った。車内は同じ制服をきた生徒が多く、満員というほどではないが座席はほとんど埋まっていた。
 車両点検の二分間、わたしたち二人の間に沈黙が流れる。
 わたしは接触してきた星来を見下ろしてあれこれ推測しながら、話を振ってくれるのを待っていた。
 背はわたしより高い。おそらく学力も高いほう。湊高校にいる時点でそれなりの学力は保障される。部活や校外活動の功績だけで採ることはしないという方針は教育関係者以外の人でもご存知のはずだ。
 携帯電話を気にしているところから気位も高そうで、きっと愛されて甘やかされて育ってきたんだろうという結論が出た。
 
「アドレス、交換しよう」
「いいけど」
 
 電車が動き出してから不意にそう言われたので、何の意識もなく鞄のジッパーに手をかけた。山田さんの、さっきポケットに入れたじゃん、という言葉でそれを思い出す。
 
「意外とうっかりしてるんだね」
 
 そういわれて頭にきたが、屈託のない笑顔に悪意は感じられず、出会いはともかく接触して間もないことも踏まえてあえて突っ込まないことにする。
 
「用事ができたらメールしてもいい?」
「もちろん」
 
 メールアドレスを交換しておいてよくそんなことが訊けるもんだと思ったが、山田さんの携帯電話の飾りっ気のなさにわずかながらも仲間意識を覚えたので黙っておいた。
 
「これ、どこのやつ?」
 
 国内の大手携帯会社メーカーを挙げると、山田さんは同じだといって笑った。屈託のない笑顔を何度も見せる山田さんに、受け身でいようという感情はもうなかった。むしろ初めての友達になってくれそうなので、それはそれでいいかと思い直したほど。
 もう少し山田さんのことを知りたいので、試しにいろいろ尋ねてみる。
 ただし山田さんに対して完全に心を許すというつもりではなかった。最近の若者に見られる軽い感じの話し方、振る舞いにはどうも不信感が募る。
 ――もう誰にも裏切られたくない。
 
「どこまで乗っていくの?」
「大滝ー。あそこで乗り換え」
「わたしも大滝だよ。それからはバスだけどね」
 
 今後のことは抜きにして、とりあえず明日は星来とともに登校することになるだろう、と思った。
 とりあえず、話を継がないと。
 
「部活、入るの?」
「吹奏楽部。強いって言うし」
「へえ、意外」
「どうして?」
 
 山田さんは不思議そうに首を傾げた。
 
「背が高いから運動部だと思ったの」
「よくいわれる。陽ちゃんは?」
「決めてないよ」
「中学は何やってたの? あたしは吹奏楽やってたんだけど」
「読書部という名の帰宅部。校外でオケやってたからそれで」
「へえ……オケ?」
「オーケストラのこと。中学が田舎過ぎて弱小吹奏楽部だったから部活じゃやってなかったけど、小二くらいからサックス始めたんだ」
 サックス、という言葉の響きに山田さんの目の輝きが増す。
「奇遇だね! あたしもサックスだよ。でもオーケストラにサックスなんてあったっけ」
「たまに入れてもらえる程度だけど、暇なときはサックスだけでアンサンブルしてる」
「楽しそうだね」
「うん」
 
 この子はどうして楽しそうなんだろう。仲間意識が強いのは、わたしが嫌ってきたキリギリスと変わらないのかもしれない。童話じゃ、アリのほうが群れになっていたけれど。
 
「ね、ね、一緒に吹奏楽部入ろうよ」
「いいよ、そうするつもりだったから」
「湊といえば吹奏楽、吹奏楽といえば湊でしょ。頑張ろうねー」
「うん」
 
 サックスに限らず単語の発音がいちいち若者らしい。語尾を上げていうのがその要素の一つにあたる。
 山田さんの口からあふれる言葉の大河に流されないようにしようという思いが、いつのまにか自然に体を固くしていた。
 それを知ってか、それとも知らずにか。山田さんは、座りなよ、といっていつのまにか空いていた隣のスペースを指で示した。二駅ほど過ぎて客足も減ってきたことを理由につけて、若い身ではあるがありがたく座ってしまおうと吊革から手を離す。
 すると、そこにふっと影が差した。
 咄嗟に視線を上に移すと、健康的に日焼けをした男子生徒が同じくわたしを覗き込むようにして立っていた。彼は親しげに山田さんの肩に手を乗せようとしたが、山田さんはそれをさりげなくかわして立ち上がり、彼を見据えた。口は笑っているが、狩りをするような目をしている。
 
「星来、久しぶり」
「何か用でもあった?」
 
 不思議な態度をとる山田さんを目の当たりにし、わたしはただただ困惑するばかり。とりあえず邪魔をしないように二人の視界から外れた場所で彼らの表情に注目する。
 山田さんは近くのドアに歩み寄り、そこにもたれて柔らかそうな髪を撫でつけた。男子生徒はそれに連動して位置を変える。
 
「高校まで一緒なんだもんね」
「よかったよ」
「それにしても統也がよく受かったもんだよね」
「野球断ちして頑張ったからな」
「下手になっちゃった?」
「まさか。受検終わってからすぐ投球練習再開したから。本当に野球だけを絶ってただけでジョギング、筋トレ、キャッチボール――まあこれくらいはしてたからな」
「そうなんだ。頑張ってね」
「おう」
 
 数本の線路が交わるのが見え始め、電車はここら一帯のターミナル駅である大滝に到着した。わたしは乗車時より強い力で手を引かれて足早に電車から降りる山田さんについていった。統也、とよばれていた男子生徒が慌てて後を追ってくるが、人ごみにまぎれて見えなくなる。星来、と呼ぶ声も聞こえなくなった。あるいは、公共の場ということをわきまえたのか。
 
 わたしたちは人ごみをかき分けて歩く。
 
「もう、ついてこないでよね、ばか」
「本人には言わないの?」
「何気に怖いんだもん、あいつ。なのに大事な時は憶病なんだっ」
「ふうん」
 
 山田さんは何も言わずにずんずんと歩く。どこかへ向かうということよりも話をするということよりも、歩を進めることだけに集中しているように。
 
「あ、わたし……」
 
 バス停、こっちなの。喉まで出かかった思わず言葉を飲み下す。止めようとした足も山田さんに続く。
 山田さんが泣いていたから。
 初めて話した相手なのに、どうして涙が見せられるんだろう。泣くほどのことだったのだろうか。わたしにはよくわからない。
 わかるのは、わたしも山田さんも昼食を取っていないということ。
 これは死活問題だ。
 
 
 
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